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いつでもさよなら

「・・・追いかけますか」 言いながら、出ていく少年を目の端に捉え、もしもそんなことになったら面倒くさいから、できればイエスと言わないでほしい、と海原は思ったけれど、警察官という立場上、もしかしたらそんなことは聞かずに、追いかけるべきだったのかもしれない。 「家族の問題なので」 項垂れた鏡利の返答など興味はなかったけれど、海原にとって望んでいた結果になり、海原は周囲に分からないくらい僅かに口角を上げた。ちらりと隣に立っている自分をここに招き入れた、上月一禾という男を見やる。夏衣にホテルの住人に余計なことは言わないようにと釘を刺されたから、一応警察官以上のことはしないでおくつもりだったけれど、いつもは絶対に寄り付くことのできない夏衣の住んでいるホテルに、合法的に入ることができた以上、もうこんなイレギュラーはないだろうなと思ったから、夏衣がそこで一緒に住んでいるらしい人間をできるだけ観察してから帰るつもりだった。夏衣がいなくなったことで、青白い顔をして焦燥する一禾は、海原にとっては何の面白味もなくて、つまらない男に見えた。それなのになぜ、こんな一般人を夏衣が大事にしていて、一緒に暮らしているのか、海原には全然分からなかった。無意識のうちに力を入れていた手の骨がぴきりと音を立てる。 (駄目駄目、これ以上、殴ったら駄目) 自分で自分のことを律するみたいに、力の入った右手はスラックスのポケットに閉まっておく。もしも考えるより先に手が出てしまうことがあっても、そうすればポケットに引っ掛かって初速が遅れれば、多少の理性も働くだろうと思った。海原には時々そういうこともあって、それには海原自身も頭が痛かったが、なくなることは多分ないのだろうと、鼻から諦めているのもまた事実だった。 (なんで夏衣様はこんな豚小屋みたいなところで生活してるんだろう) はじめて入った、夏衣が東京で過ごす家に決めたその古い洋館は、元々白鳥がホテル経営をやっていた頃の名残らしく、確かに一軒家より遥かに大きな建物だったけれど、そんなものは本家とは比べ物にならなくて、海原にとってはその空気が淀んでいるような気がするのも酷く気になった。夏衣にそれを尋ねると「いいんだよ」と小さく呟くだけだったので、その真意はまだ分からない。 「また何かありましたらご相談ください」 海原はぼんやりした目で頷く一禾に向かって、本当に相談されたら面倒くさいから嫌だったけれど、一応にこやかにそう言って頭を下げておいた。 海原がホテルから出たところで、まるでそれを見計らっていたかのようにポケットに入れていた携帯電話が音をたてて、海原はそれを取り出してみると、ディスプレイには、警察ではなく、白鳥東方支部の上司である白橋の名前が写し出されていた。嫌な予感しかしなかったが、まさか無視することもできなかったので、渋々通話ボタンを押してそれを耳に当てる。 「海原です」 『あ、海原くん?白橋ですけど、父親の方は無事送り届けた?』 「あーはい、殴られてましたけど?」 白橋の話はほとんどいつも説教みたいなものだったから、それを聞くのは面倒くさかったが、それも仕事の一部なので耐える選択肢しかなかった。本当なら今頃、車の中で夏衣の話を聞いていたはずだったのに、急に白橋に父親をホテルに連れていけと言われて、夏衣と小牧とは別行動になってしまった。小牧とは違って、自分は平常から夏衣と頻繁に顔を合わせるわけではないから、どんな機会でも貴重なのに、白橋にそれを邪魔されているような気持ちがして口惜しい。元々白橋のことはあまり好きではなかったが、こういうことがあると更に不快感情が高まって働きづらくなると思いながら、海原は一応舌打ちをしないように気を付けていた。 『別にそれはどうでもいいや。こっちも頼まれてるのは連れていくことだけだから』 「そうですか、じゃあ俺、仕事に戻りますね」 『ちょっと待って、海原くん』 そんなに仕事熱心でもない海原だったが、今日はそれを理由に幾らでも白橋を振り切ることができると思ったけれど、白橋のほうが幾分かはやかった。 「・・・なんですか」 『君、今日一般の人を殴っただろう』 「えー、そうだったかな」 『惚けても無駄だから。兎に角始末書書いてね、来週まで』 「げー」 白橋は穏やかで柔和な物言いの人だったが、そういうルールには厳しい人だった。白橋の前の上司がもう少し緩いタイプの人間だったから、そこでのびのびやり過ぎた皺寄せを食らっていると思いながら、しかし白橋の言っていることは正しいことだったので、海原はポーズだけでそういう風に言ってみたけれど、それから逃れられるとはとても思っていなかった。 『海原くん、警察官の君にこんなこと言いたくないけど』 「なんですか」 『分かってると思うけど、一般の人に手を出すと普通に犯罪だからね、捕まるから』 「えー、分かってますよ、でも夏衣様が拘束されてたし、怪我もされていたんですよ」 『それとこれとは違う話だから。兎に角、君が理性なく暴れてると、こっちもそれをいつまでもカバーできないよって話』 「はぁ」 『危なくて夏衣様の近くにも置けないから、今のポストでやりたいならもう少し注意して』 白橋の声は冷静でその分冷たく感じた。夏衣の名前を出したりして、海原が一番嫌がることを知っていて、一番嫌な言い方をしてくるなぁと思ったけれど、海原はもうそれに言い返すことはしなかった。してもどうしようもないことはよく分かっていた。 『始末書、来週までだからね。それじゃあご苦労様』 「・・・お疲れさまです」 海原がそれを言い終わらない内に、通話はぶつりと途切れて、海原は沈黙する携帯電話を見ながら、溜め息をつくしかなかった。 (上から物言いやがって、これだから字継ぎって嫌いだ) 白橋は白鳥の本家により近い、「字継ぎ」と呼ばれる位の高い家柄であり、海原よりもずっと近い立場で、夏衣と仕事をしているらしい。白橋が本職の弁護士という仕事以外に、夏衣と一体何をしているか、海原は分からなかったので知る由もなかった。知らなくても多分良かったし、知らないほうが身のためだと思うことも少なくはなかった。海原は今の仕事で自分の加虐性もある程度満たされて、夏衣に会う時間が少ないことを除けば、それなりに満足しているつもりだった。 (ちょっと白鳥の血が俺たちより濃いからって偉そうに) (ほんとめんどくせぇ) ポケットに入れた手の骨が、またぽきっと短く音を立てたけれど、海原はそれを知らない振りをした。

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