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イミテーションゴールド Ⅳ

夏衣のことが思ったより恐ろしくなかったのは、きっと夏衣が今にも壊れそうな、繊細で美しい大人だったからなのかもしれない。形は違うけれど少しだけ三森にも似ているような気がした。ほとんど暴力みたいなセックスが終わった後に、夏衣はにこにこ笑ってもう何も言えなくなった京義の髪を丁寧に撫でた。それで先程、頭を乱暴に上から押さえつけたのが嘘みたいだと思った。それを振り払いたいと思ったけれど、京義にはもう指一本満足に動かせるだけの体力なんて残されていなかった。 「ごめんね、痛かった?俺、下手くそなの、セックス」 言いながら夏衣は笑って、外していた度の入っていない黒淵の眼鏡をかけた。どうして夏衣が度の入っていない眼鏡を四六時中しているのか分からないけれど、そうすると夏衣の不思議な色の光彩が少し影って見えて、夏衣の美しい形を少し緩めるような気がするから不思議だった。夏衣は度々、自分の部屋にいる時のみ、眼鏡を外していることがあったが、京義の前ではあえて外さないようにしているみたいだった。理由は分からない。きっと夏衣に尋ねてもはぐらかされるに決まっていた。 「運転も苦手だし、男のできなきゃいけない大体のもの苦手だなー、女の子として育てられたからかなぁ」 全身どこもかしこも痛くて、筋肉が突っ張っているような緩んでいるような不思議な感覚の中で、京義はまどろみながら夏衣が側で決して京義ではなく、空虚に向かって喋り続けるのを聞きながら目を閉じた。夏衣は時々そうやって、京義にはよく分からないことを、ひとりで喋っているときがあった。自分の部屋にいると気が抜けるのか、いつも取り繕っているみたいで実態が見えないけれど、その時だけは生々しくて痛々しい、傷口を開いて見せられているみたいで嫌だった。 (眠ろう、疲れた) やっと終わったからもう眠ってもいいのだと思えた。明日起きたらもう誰かが死ぬかもしれないことに怯えなくても良いし、理不尽な暴言を頭の上から浴びせられることもないのだと思ったら、知らない誰かのおもちゃになることくらい、耐えられると思った。どうせ自分には差し出せるものがそれしかないのだから、だったらそれを差し出して、やりたいことをやろうと思った。やりたいことなんてないくせに。 合図は2回、扉を叩いて名前を呼ばれることだった。夏衣とそう取り決めをしたわけではなかったけれど、しばらくするとそれが定着したから、それが次第に新しいルールになった。夏衣は京義が学校に通いたいと言えば、次の日には手続きをしていたし、バイトがしたいと言えば、「京義に何ができるの」と笑ったけれど、「ミモザ」を紹介してくれたりした。 「お待たせしました、夏衣様」 「牧、いつもありがとう」 運転が苦手だという夏衣が、その時ホテルに呼びつけたベントレーの扉を開いたのは、おそらくだがはじめて夏衣と会った時に夏衣の後ろに立っていて、こちらを嘗め回すように、見つめていた男だった。夏衣は旧知の仲みたいにその男のことを「牧」と呼んで随分親しげにしていたけれど、男の方は夏衣と意図的に距離を取るようにして、どういう関係なのか京義にはよく分からなかった。 「白石さんのところですよね」 「うん、行くの久しぶりだな。京義も乗りな、大丈夫だよ、牧は俺と違って運転が上手だから」 そう言って夏衣は振り返っていつものようににっこり笑った。けれど夏衣の後ろに立っている小牧は、京義と目を合わせるとまるでこちらを睨み付けるみたいな、渋い表情をしていて、京義は夏衣の「大丈夫」には信憑性が何もないことを悟るしかなかった。夏衣のことで不思議に思うことは他にもあった、例えば『ホテルプラチナ』が営利目的のための施設ではないことは一禾の話からも分かったけれど、では何のためにそれがあるのか、全く働いていないように見える夏衣がどこから資金を集めて、どうして自分達の生活費を全部出しているのか、不思議に思うことは他にもあったけれど、夏衣が踏み込んでこない以上、京義もそれを夏衣に尋ねられなかった。そうして多分、聞いても教えてくれないのは分かっていた。 その時、夏衣と京義は小牧の運転するベントレーに乗って、ひっそりと静かな場所に佇むバー「ミモザ」にやって来ていた。夏衣が「ミモザ」に来たのはその時だけで、その後京義に「バイトどう?」と思い出したように聞くことはあっても、基本的には首を突っ込んでくることはなかった。「ミモザ」は深夜営業前で、まだ「close」の札が掛かったままだったが、夏衣は勝手が分かっているみたいに扉を開けて、中にいやに行儀良く立って、おそらく夏衣のことを待ってたであろう、店長の白石と目を合わせた。 「白石くん、ごめんね急に呼び出して」 「・・・いえ、大丈夫です」 京義は夏衣と一緒に店の中に入ったが、小牧は中には入らずに、ベントレーの側に立っていた。店の中に入る一瞬、振り返って小牧のことを見やると、小牧は何も言わずにただそこで、京義のことなど見えていないかのように、夏衣のことだけを熱心に眺めていた。 「急にどうされたんですか」 「いや、白石くんのお店、そういえばピアノがあったなって思って」 「ありますけど・・・」 白石は居心地が悪そうにいつもは客が座っているフロアの中央の椅子に夏衣を案内して、自分もその正面に座ると、少しだけ奥を見やった。その視線の先を追いかけると、確かにグラウンドピアノらしきものが布がかけられて置いてあるようだった。 「あれってお店では使ってないの?」 「まぁ、そうですね。飾りみたいなものですね・・・」 「弾かせてもらうことはできる?」 「夏衣様がですか?」 夏衣に関わる人々は、小牧もそうだったが、夏衣のことを「様」をつけて呼んで、まるで召し遣いと王様みたいな構図だった。夏衣も父親みたいにどこかの会社の社長かなにかで、本当は自分達の見えないところで働いていて、時々出会う夏衣と面識があるような人々は、夏衣の部下なのかもしれないと思ったし、実際小牧は自分は夏衣の部下だと言っていたこともあったけれど、京義が知っている社会のそれと、夏衣のそれはどこがどうと言いにくいけれど、どこか違って見えて、いつも歪だった。 「まさか、俺はピアノなんて弾けない」 「そうでしたっけ・・・」 言いながら白石の目が動いて、夏衣の隣に座っている京義にぶつかって止まった。 「京義がさ、あ、この子京義っていうんだけど、ピアノが弾けるんだって。バイトって形でさ、雇ってくれない?」 「・・・はぁ」 「これから俺と一緒に住むことになったの『ホテル』で。ほら、京義挨拶して」 「・・・よろしくお願いします」 明らかに白石は戸惑っている様子だったが、夏衣はそれに気付いているのかいないのか、暢気にひとりでべらべら言いたいことを喋っていた。 「失礼ですが夏衣様、この子は・・・ーーー」 「そんなこと白石くんに関係ないよね」 「・・・勿論、です」 ひゅっと白石が息を飲む音が近くにいた京義にも聞こえてくるようだった。

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