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イミテーションゴールド Ⅵ
夏衣は京義が学校に行きたいと言えば学校にいくための手続きを取ってくれたし、バイトがしたいと言えば「ミモザ」に京義を連れて行き、青ざめる白石相手ににっこり微笑むだけで、その全てを京義に与えてくれた。それが自分が夏衣に支払っているものの代償として、釣り合っているのかどうなのか、京義には良く分からなかった。他のものと比べようがなかったのだから仕方がない。何回夏衣に部屋に呼ばれても、暴力的なセックスは痛くて堪らなかったし、夏衣が「いつか気持ち良くなるよ」と囁くみたいな未来は、いつまでたっても京義のところには訪れなかった。それでもきっとあのまま陰鬱な家にいるよりはずっとマシだったし、「ホテル」にいる間は、しばらく安全だと少しだけ京義は思えていた。
「本名で学校なんか行って、親にばれないのか」
「さぁねー、いつかはばれるんじゃない」
「話が違う、契約違反だろ、そんなこと」
「まぁまぁ。一応それなりに手を尽くしてちゃんと隠してあげるよ」
「・・・」
「でも親が京義のことを見つけたら、それはもう、一生懸命探したってことなんだから、その時は大人しく帰る時なんじゃない?」
その時も確か、夏衣はにこにこ笑って、不満そうな京義の視線をそれで交わした気になっていた。取り合ってくれない夏衣にイライラしても、無駄だということは嫌というほど分かっていたけれど、その時京義にはムキになって言い返すしか方法はなかったし、選べなかった。
「帰らない、俺は」
「どっちでもいいよ、京義の好きにすれば」
夏衣は京義に契約以上のことを強要しなかったから、それはそれで京義にとってホテルは居心地は悪くなかったけれど、そうやってことあるごとに夏衣が決定権を渡してきたことには、少しだけ不安に思ったこともあった。そういう時に自分はまだ、それを決めることが難しいくらいには子どもなのだと思い知らされることも多かった。そうして京義が一番触れられたくない、親のことも夏衣は一度も聞かなかった。一禾は時々心配そうに京義に聞いてきたこともあったけれど、その時も夏衣は何も言わなかった。それは優しさではなく、単に興味がないからなのだと分かったのは、随分後になってからだった。
そうしてその内に京義は高校生になり、ホテルには夏衣の遠縁だという紅夜がやってきた。
「あそこはそういうところなんだよ」
「・・・へ・・・?」
「だからお前も連れて来られたんだよ」
「・・・な、なに?」
「俺たちは別に好きであそこにいるんじゃない、集められてる」
「・・・あ、つめ・・・?」
「俺たちは、夏衣の趣味で集められてんだよ」
京義がホテルに住む誰にも事情を話さなかったみたいに、一禾も染もそれなりに家で暮らせない理由はあったようだったが、そのことについて一禾や染から聞いたことは一度もなかったし、勿論、夏衣がそれを知っているのか、知らないのか分からなかったけれど、夏衣がそれを京義に教えてくれるはずもなかった。唯一分かったのはどうやら、ホテルで自由に暮らすためには、一定の条件があり、それのひとつが「夏衣に選ばれる」ということらしかった。一禾と夏衣が時々冗談みたいに話していることを、京義はいつも聞いていたけれど、それが確信に変わったのは、紅夜が連れて来られた時だった。
「やったら京義も、家族いいひんの?せやからナツさんに引き取られたん?」
「俺は好きやで、『プラチナ』もナツさんも皆も。京義はそうやないの?」
そんなことに返事なんかできないと思った。何も知らない茶色い目をする紅夜を見ながら思ったことは、多分羨ましいということではなかったと思う。無知は罪だった、何より重い大罪だった。好きとか嫌いとか、そんな指標は京義には無意味だった。屋根があって食事があって眠る場所があったら、どこでも良いわけではなかった、多分。「ホテル」はそれしかしらない自分にとっての最適解だったと思うけれど、それを無知な目で自分を見つめる紅夜にどう説明したらいいのか分からなかった。
(こいつは何も知らないんだ)
無知は罪だった。その襟首を掴んで、今まで自分が夏衣としてきたことを、全部吐露してやろうかと思った。そうすれば、その綺麗な瞳も少しは雲って見えるのではないかと思った。それでも夏衣と交わした契約の中に、「他言してはいけない」というルールがあったことを思い出して、京義は紅夜のそれに、何も言わずに、正確には何も言えずに、ただ黙っていた。夏衣の「遠縁」だといってどこからか連れて来られた、どこにも傷のない、陰りのない美しい少年は、京義よりもずっと健康そうに見えたし、ずっと日向で過ごしているように見えた。本質はそうでもないこともあったが、その時京義にはそう見えた。その近くにいると、自分の影が一層濃くなったような気がして、京義はそれに喉が詰まるような気配がしたこともあった。
「お前の事情なんて知らない」
「俺は契約でいるんだ、好きとかどうとかそういう問題でいるんじゃない」
もしかしたら夏衣は自分というおもちゃにはもう飽きて、紅夜という新しいおもちゃをどこかからか調達してきたのではないだろうかと、その何も知らない瞳を相手にして京義は思った。そうだったとしても自分は夏衣を責めることはできないし、紅夜に実情を話すこともできなかった。その時、夏衣との間にあったのは確かにふたりで「契約」と呼んでいたものだったけれど、何の確証もないものなのだと京義は気付いて、それには愕然として足が震えた。自分はいつまで「ホテル」にいられるのだろう、いつまで「ホテル」にいても良いのだろう。「帰らない」と言ったら、夏衣はいつもみたいに笑って「好きにすれば」と言っていたけれど、それはイコール「ここにいてもいい」ということと同義なのだろうか。
「あいつもこうやって手籠めにすんの?」
「妬いてるの、かわいいね、京義」
言いながら夏衣は笑って、出会った時より少しだけ伸びた髪の毛を縛っていたゴムをほどいた。長い髪の毛はばらばらと夏衣の顔に降り注いで、いつもはそんなことは絶対に思わないのに、その時は少しだけそれが綺麗に見えて悔しかった。
「言ったでしょ、紅夜くんと京義の契約は違うの。染ちゃんと一禾とも違うみたいに」
「紅夜くんはここにいるために俺に対価を支払わなくてもいいの、京義みたいに」
どうしてそうなのか分からなかったし、そんなことを夏衣は一々丁寧に説明はしてくれなかった。夏衣はいつも説明不足で、それでも「分かったでしょ」とそれ以上言葉を尽くすことを簡単に放棄する。「遠縁」の紅夜と他人の自分では確かに、理由の重さが違うのは理解できたけれど、京義に理解できたのはそこまでで、そうして紅夜が暢気になんの代償も支払わずに、のうのうと「ホテル」で自分と同じように暮らしていることを、恨んだりもしたけれど、どうやら夏衣は自分というおもちゃでまだ遊ぶつもりなのだと分かったことについては、夏衣が笑いながら言うみたいに、決して「嫉妬」という感情なんかではなかったと思うが、それはイコール「ここにいてもいい」ことだったから、少しだけほっとしたことも事実だった。
「分かったらはやく服全部脱ぎなよ、一々言わないと分からないの、面倒くさいなぁ」
いつもより少しだけイライラした調子で夏衣が言うのに、京義は言われた通りTシャツを脱ぎながら、きっと今日はいっとう酷いから明日の筋肉痛は覚悟しなければいけないと思った。
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