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イミテーションゴールド Ⅶ
それが偽物なのだということは、勿論はじめから分かっていた。それは京義も夏衣も両方とも。でも偽物でも良かった。心地が良かったから、偽物でも本物でもどっちでもよかったし、どうでも良かった。そんなこと関係ないと思えるくらいには、それが自分の日常と同化していて、その境目が分からなくなるくらい、長い間それと一緒に居すぎてしまった後だったからかもしれない。
「帰らない、俺は」
煩い繁華街の中で手を伸ばしても届かないけれど、声が聞こえないほど遠くにいるわけではない、夏衣に向かってそう言って、京義は一度肩で大きく息をした。想像しうる最悪の事態にはなっていなかったけれど、状況は同じくらい悪かった。夏衣はそこで意味のない眼鏡を一度触ってから、小さく溜め息をついた。子どもの我が儘に呆れているようにも見えた。
「どうして、お父さんに見つかったから?」
「あんな奴、親でもなんでもない」
絞り出した声が僅かに震えているような気配がして、京義はわざと手のひらに爪を立てるようにぎゅっと握った。そうやって少しでも、冷静でいられる自分を保っていなければいけなかった、そうやって痛みで目の前を鈍らせるようにしても、まだ。正面に立っている夏衣を見やると、そこでいつものように笑っていると思ったが、夏衣は少しだけ戸惑ったような表情を浮かべていた。
「・・・別にそれでもいいんだけどさぁ・・・」
「ならほっといてくれ」
「・・・ねぇ、京義」
夏衣が不意に優しい声を出して、自分を懐柔しようとしている気がして、京義は思わず半歩下がった。夏衣相手に警戒しても、威嚇しても、意味がないことは分かっていたけれど、もうこの気持ちの持って行き場がきっとどこにもなかった。そういう意味では、手のひらに爪を突き刺した程度では、全然自分が冷静さを保てていないことに、京義がまず気付いていなかった。
「俺、言ったでしょ。京義のことは手を尽くして隠してあげるけど、親が見つけ出したらその時は一生懸命探したってことなんだから、家に帰りなよって」
「・・・ーーー」
そんな話をしたことがあるような気もしたけれど、夏衣がひとりで勝手に言っていただけで、京義はそれに頷いた覚えも、同意した覚えもなかった。だから今更そんなことを言われても、自分がそれに従う必要なんてどこにもないと言おうとして、声が掠れる。
「あの人が京義にどんな酷いことをしたのか、俺は知らないけどさ、きっと本気で京義のこと心配してたんだよ」
眉尻を少しだけ下げて、いつもより随分優しい声で、そう珍しく他の大人が言うような正論を呟く夏衣は、京義の知らないそこら辺にいる中身のない大人と同じに見えた。夏衣が分かってくれるとは思っていなかったけれど、少しは理解するつもりがあるから、自分をホテルに連れてきて、住まわせてくれているのだと京義は少しでも思っていたことに、裏切られたような気がした。
「お前には分からない、俺だって本当は、母親が死ぬのは怖かったし、見ていられなかった」
「だけど俺がやらなきゃいけなかったんだ、全部」
「嫌だったのに、俺だって・・・ーーー」
本当は抱き締めて欲しかったし、優しい言葉を呟いて、大丈夫だと言って背中を撫でて安心させて欲しかった。それだけがその時、京義には圧倒的に足りていなかったから。その時、手を伸ばしても届かないくらいに、遠くにいたような気がするのに、ぐいっと腕を引っ張られて、はっとするとぎゅっと正面から夏衣に抱き締められていた。虫みたいに細い腕は思ったより力が強くて、京義はその圧迫感にそれ以上何も言えずに、いつものように夏衣の腕を振り払うこともできずに、ただ立ち竦んでいた。自分があの時、死の匂いで一杯の部屋で一生懸命ピアノを弾いていた時、冷たい病院の廊下を歩いていた時、着たことがない真っ黒いスーツを着て俯いていた時、欲しかったのはこの腕だったのかもしれないし、全然違ったかもしれなかった。
(なんで、こいつ、細いのにこんな、力強いんだろう、な)
こんな風にあの時、もしも誰かが、誰でも良い、鏡利じゃなくても良かった、きっと夏衣でも良かったし、他の誰でも良かった、偽物でも本物でも良かった、偽物の腕がこんなに安心できるならきっと、偽物でも京義は、それで全然構わなかったのだ。こんな風にもしもあの時、もしも誰かが、自分のことを抱き締めて、そんなに頑張らなくても大丈夫だよと声をかけてくれさえすれば、涙のひとつも流して見せて、苦しさを吐露することを許されたかもしれないのに、泣きじゃくる兄の隣で自分だけはまともなふりをして、母親が死んでいるのにまともなふりをして、分かったふりをして、立っていなくても良かったのに。
「・・・分かってたんだ、はじめから」
「うん」
「鏡利が悪いわけじゃないんだ、エマが死んだのは病気だったからだ」
「・・・そうだね」
「誰かのことを悪者にしなきゃ、誰かのことを恨んでいなきゃ」
息を吸ったら耳の奥が詰まったような感じで、耳鳴りが聞こえたから、その後の自分の声は聞こえなかった。
「俺、きっと駄目になって、しまいそうだったから」
だからそれが夏衣に聞こえたかどうか分からない。唇が震えて上手く発音できている気がしなかった。
「今までひとりで良く頑張ったね」
「もう、頑張らなくても大丈夫だよ、京義」
そう言って小首を傾げて、夏衣はいつものようににっこり笑った。それはここではじめて会った時に見た夏衣の繊細で儚い微笑と良く似ているような気がした。あれから色んなことがあって、ホテルで過ごすことが京義の中の日常に刷り変わって、エマが死んでしまったことも、三森に詰られ続けたことも、いて欲しい時にいつも鏡利がいなかったことも、全部忘れてなかったことにできる気がしていたけれど、それが鏡利の出現によって、一度に京義のいる場所まで押し寄せて、京義はその記憶の冷たさに息ができなくなるかと思った。夏衣がそこで、今にも消えそうに笑ってそう言うまでは、確かにそう思っていた。
「・・・お前がそんなこと言うなんて、思ってなかった」
「あ、そ?期待外れだった?」
「そんな普通の大人みたいなこと、お前も言うんだな」
「俺のこと何だと思ってるの、京義は」
あははと夏衣は笑って、それは京義が知っている夏衣の数少ない健康的な部分だったから、それに触れて京義は少しだけほっとしていた。京義を締め付けていた腕は簡単にほどかれたけれど、その背中も腕も、じんじんと痺れたような気がしていた。
「帰ろうよ、京義」
偽物だと分かっていたけれど、それでも良かった。全部が嘘でできている訳ではないことを、京義は知っていたから、それが偽物だったとしても、そうではなかったとしても、どちらでも良かった。そんなことは最早、問題ではなかったから。
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