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夢見る頃を過ぎても
「三森くん、朝だよ」
世界はいつも順調だったし、従順だった。三森は声がしたほうをちらりと見たけれど、またすぐに目を瞑った。その光の明るさから、もう朝なのだろうと分かっていたけれど、まだ自分の体温と同化したベッドの中で眠っていたかった。側まで来ていたはずの坂下は、三森の体に触れることはなく、カーテンを開けて、部屋の中を光で一杯にすると、それ以上は何も言わずに、部屋を出ていった。
「もしもし」
ポケットの中で震えていた携帯電話の通話ボタンを押すと、坂下はそれを耳に当てながらそう呟いて、後ろ手で三森の部屋の扉を閉めた。
『坂下くん?朝からごめんね、鏡利です』
「どうされました?」
『あのね、今日。警察から連絡をもらって、京義が見つかったって』
「・・・京義くん」
『この後、会いに行ってくるよ』
鏡利の声はいつもより上擦っていて、それは嬉しさもあっただろうし、きっと緊張もあった。1年以上会っていない息子に、自分を恨んでいるかもしれない息子に、会いに行くと言うのはどんな気持ちのするものだろうと思って、坂下は息を吸ったけれど、それにどんな言葉を返すべきなのか分からなかくて、何も言うことができなかった。家を出ていく最後の日に見た、京義の雪のように白かった、あの頬のことを思い出したら胸が痛んだ。一体この長い間、どこでどんな風にしていたのだろう、無事に過ごしていたのだろうかと、本当は鏡利に尋ねたかったけれど、その答えが怖くて尋ねることもできなかった。
「・・・そうですか、それは」
『うん、ミリくん元気にしてる?』
「はい、お元気ですよ、相変わらず」
『そうか、なら良かった』
ちらりと坂下は閉じられたままの三森の部屋の扉を見やって、小さく息をついて、父親が三森に直接会いに来られないことを良いことに、またいつものように嘘をついてしまった、と思ったけれど、これ以上鏡利に心配事を増やしてほしくなかった。秘書の中舘にもどういう状況でも、兎に角悪いことは報告するなと釘を刺されていることもあって、本当のことは何も言えなかった。
『京義に会えたら、また連絡するよ』
「・・・お待ちしています」
鏡利の電話はそれで途切れて、坂下の手には沈黙した携帯電話だけが残されていた。誰もが誰かを守りたかっただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、坂下だって思わなかったことがなかったわけではない。自分のことすら満足にできないのに、他人のことばかり心配して、磨り減っていく京義のことも、誰かを傷つけて常に誰かよりも優位に立っていないと、震えるほど本当は弱い三森のことも、きっと誰も悪くはなかったのだろうと思うけれど、もうきっとこの溝を誰かが修復してくれることはないのだろうなとも思った。その隔たりは深く遠く、もう見えないところにあるみたいだった。
「坂下さん」
そう呼び掛けられて振り返ると、そこに三森がパジャマのまま立っていた。こんなに朝早く目覚めることはいつもなかったから、朝だよと声をかけるのは忘れなかったけれど、それでも三森が起きてくることなんてほとんどなかったから、坂下はびっくりして、もしかしたら三森はさっきの電話を聞いていたのではないかと思って、ぎゅっと携帯電話を握る手に力が入った。
「・・・おはよう、三森くん、早いね」
「坂下さんが起こしたんじゃん」
言いながら三森は笑って、坂下を追い越していって、リビングの椅子に腰掛けた。
「朝食、何にしようか?」
「うーん、坂下さんが食べるのでいいよ、一緒で良い」
「・・・そう」
自棄にすっきりした顔をして、三森はそう言いながら、テーブルに肘をついた。そんな憑き物が落ちたような表情をして、穏やかな口調で微笑すら浮かべている三森のことを、坂下は久しぶりに見たような気がした。母親が死んでしまってから、しばらくの間付きまとっていた隈もその時は随分と薄く、分からないくらいになっていて、少しずつ三森は回復しているように見えた、傍目からは。
「・・・何かさ、京義の夢見たんだ、昨日」
「京義くんの?」
食パンをトースターに突っ込みながら、坂下はキッチンから三森のほうを見やった。三森はそこで肘をついた格好のままで、そこからは何も見えないのに窓の外を眺めているようだった。
「うん、何か、内容は全然覚えてないんだけど、京義が出てきた。アイツ、元気にしてるのかなぁ」
「・・・元気にしてるよ、きっと」
それを聞いた瞬間、三森はもしかしたらさっきまでの鏡利との電話を聞いて、そうやって自分に揺さぶりをかけてきているのかもしれないと思ったけれど、きっと三森はそんな高等なコミュニケーションをとることはできなかった。きっと鏡利と繋がっているのが分かったら、真正面からぶつかってくるだろう、そんなエネルギーが今の三森にあるかどうかはさておき。
「・・・だったら良いなぁ、俺はさ、京義のこと、好きだったんだけど、アイツ多分、俺のこと嫌いだったから」
「そうなの?」
「そうだよ。きっと嫌だったよ、俺は京義のできないこと、全部できたから」
「・・・ーーー」
「でも京義は、俺にできないこと、全部できたんだけどなぁ」
言いながら三森はまるでその事を思い出すみたいに、ゆっくり瞬きをしてから乾いた笑いをたてた。三森は京義が自分は良いから、三森のことを頼みますと、最後に自分に言ってきたことを、知らないでいる。「アイツは一人では何もできないから」と呟いていた京義の横顔は、決して何もできない兄を蔑んでいたわけではないと思ったけれど、坂下はその事を三森に話すことはできなかった。
「ねぇ、坂下さん」
「なに?」
「俺さ、またピアノ、弾けるようになるかな」
「・・・ーーー」
世界はいつも順調だったし、従順だった。天才だったし神童だった頃の三森の目の前で、皆平伏せて見えたし、自分は他の人間とは違う、選ばれた人間なのだと錯覚していた。母親が死んでしまうことになることなんて、その指が動かなくなる日のことなんて、そうして自分の弱い心のことなんて、考えもしなかった。天才で神童であった三森という存在には、そんなことはあるわけがないことだったから。
「きっと、また弾けるようになるよ」
またいつものように、嘘をついてしまった。
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