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主よ人の望みの喜びよ Ⅰ
「僕が悪かったんだよ、全部」
そうして鏡利の口から出てきた言葉たちは、ここでさっきまで一緒に暮らしていたはずの京義の姿と重なるようで重ならないようで、聞きながら紅夜は混乱していた。いつか誰もいない音楽室で、ピアノに向かって俯いていた京義の横顔を盗み見した時のような、どこかばつの悪い気持ちが背中を這っている。きっとそれでも、そんなことがあってもまだ、弾くことを諦められない京義は、母親の影をそれに見ながらも、それに向き合うことしかできずに俯いていたのかもしれない。向き合ったって打ちのめされるのが分かっているのに。だって母親はもう、死んでしまったのだから。どんなに手を伸ばしても、届かないところへ行ってしまったのだから
(家族がいいひんから、ナツさんに引き取られたんわけやなかったんやな)
元々口数が多くなかったこともあるし、京義は自分のことは何も話さなかったから、きっと自分と同じような境遇なのだろうと勝手に思っていた。けれどそうではなかったことに、紅夜は少しだけ寂しさのようなものを感じる自分のことを、戒めることはできなかった。京義は一度もそんなことは言っていなかったし、そんなものは勝手にこちらが想像していたことにすぎなかったけれど、裏切られたような気持ちがしたのも事実だった。紅夜の目にはこんなところまで追いかけてくれる人がいるだけで、それだけで京義が自分と違うのは明らかだった。だからこんなに寂しい気持ちがしたのかもしれない。
(俺と同じやと思ってたけど、違うんや)
その昔、夏衣に連れてこられた紅夜の無垢な目を見て、「こいつは俺とは違う」と京義が感じたみたいに、紅夜はそこで圧倒的に「京義と自分は違う」ことを分からせられた気分だった。京義が持っているものの大きさと、自分の持っていないものの空虚の部分を比べられているみたいで、そのせいで胸が痛かった。京義が悪いわけではないし、言わないでいたことに理由なんていらないことも分かっているつもりだったけれど、頭で理解するよりもずっと速く、心は冷えていった。そうして取り乱す一禾なんかよりも、もっとずっと冷静に、この「ホテル」の中の空気が変わっていくのを、肌で如実に感じ取っていた。
「・・・どうしてもっと早く、迎えに来なかったんですか。京義がここにいること、分かっていたんでしょう」
ダイニングテーブルに座って俯いた一禾は、珍しく冷静を欠いたイライラした口調でそう言った。染が心配そうにソファーの上で体を捻る。
「・・・いちか」
「そうだね、もっと早く迎えに来るべきだった」
「なんで」
「言い訳するみたいで嫌だけど、京義がここにいることが分かったの、本当に最近なんだ。昨日、警察から連絡があって」
鏡利の方は酷く落ち着いてソファーに座ったまま、膝の上で組んでいる指の形を少しだけ変えてそう言った。それが嘘を言っているようには、紅夜にはとても見えなかった。それに一禾は返事をせずに、ただ奥歯を噛んだような嫌な音が聞こえるはずもないのに、聞こえたような気がした。ふっと座っていた染が立ち上がるのを、紅夜は目の動きだけで追いかけた。こんな時に染の方が正気を保っていることが、いつもと違うから少しだけそれに不安がなかったと言えば、それは嘘になるかもしれない。立ち上がった染はそのままダイニングテーブルに近づいていって、俯いたままの一禾の肩に触れた。
「・・・一禾、大丈夫か、落ち着けよ」
「落ち着いてられないよ」
傍目から見ていても珍しく、一禾は染よりも冷静さを欠いていた。染が困ったように眉尻を下げて、自分にはもうどうしようもないことを証明するみたいに、鏡利のほうを見やる。
「京義はここから学校に通っていました、一年も、ずっとここにいたんです」
「そうだね、そう聞いてるよ」
「それなのにずっと見つからなかったわけないじゃないですか、おかしい」
「・・・いちか」
声を荒らげる一禾のことを嗜めるみたいに、染はそう小さく一禾の名前を呼んだけれど、一禾の目は鋭く、鏡利をただ突き刺していて、染のほうを見ることはなかった。鏡利はそれに少しだけ困ったように、ゆっくりと一度瞬きをして、何と答えたら良いのか思案しているようにも見えた。確かに京義はここから学校に通っていたし、その身分を誰にも話さなかったけれど、だれにも偽ってはいなかった。少なくとも、一禾や紅夜、染が知る限りでは。調べればすぐにでも分かりそうなものだった、確かに。
「・・・そうだね、どうして見つからなかったのか、僕にも良く分からないんだ」
それに答える鏡利の声は、酷くか細く聞こえた。その唇の端は僅かに切れて血が滲んでいて、一禾はそれ以上何も言えないと思った。この人は無傷で余裕で、ここに座っているわけではないことを、その時思い出したからだった。焦燥すれば焦燥するほど、一体これからどうしたら良いのか分からずに、迷子になることは分かっていたけれど、一禾はそこから抜け出せなくて、ただ焦ってがむしゃらに相手に攻撃的になっているだけだと分かっていた。冷静になるために、一度小さく息をついたけれど、頭の中は依然ごちゃごちゃしていてまとまりに欠いていた。夏衣がいなくなってしまったことが、こんなにも自分を不安にさせるなんて、知らなかった。
「落ち着けよ、一禾。鏡利さんは、悪くないだろ」
「染ちゃんはナツのこと心配じゃないの?」
「そりゃ・・・心配だけど・・・」
「ナツがいなかったら、俺たちここにいられなくなっちゃうかもしれないんだよ?」
「・・・大丈夫だよ」
その時、顔を上げて一禾が不安そうな目をして染にぶつけても仕方がない気持ちを、自分でも混乱しながらぶつけるのに、染はやはり落ち着いた調子で、なんの根拠もないくせにそう言って、ただ一禾の肩を撫でた。それを見ながら、紅夜は確かに夏衣がここからいなくなったら、自分達はここを追われることになるだろうなんてこと、今まで一度も考えたことがなかったことに、静かに愕然としていた。
「大丈夫じゃないよ、何でそんなこと言えるの」
「ナツはいなくなったりしないよ」
「何で、もう現に、今、いないじゃん」
そう声を震わせる一禾を見ながら、一禾は自分なんかよりももっと、ここを奪われてもいく場所なんかありそうだったけれど、珍しく取り乱す一禾を見ながら、勿論をそんなことを言うこともできずに、紅夜は他に一体何と声をかけたら良いのか分からずに、ただ黙っていた。
「・・・皆ここで共同生活をしているって聞いたけど」
「え、あ・・・そうです」
「そうなんだ、行くところがないなら幾らでも出資するよ、君たちは京義と一緒にいてくれたわけだし・・・」
鏡利が微笑んでそう呟くのに、紅夜はますますなんと言ったら良いのか分からずに、助けを求めるつもりでちらりと一禾のほうを見た。
「結構です」
そうして自棄にきっぱりとした口調で一禾が言うのに、鏡利は首を竦めた。
「・・・い、一禾さん、そんなキツう言わんでも・・・」
「ただいまー」
不意によく知った声がしたような気がして、紅夜は何も考えずに反射的に振り返った。
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