299 / 302

主よ人の望みの喜びよ Ⅱ

暢気な夏衣の声が、談話室に響き渡って、部屋の中の空気が一瞬固まるのを感じた。 「ただいまー」 夏衣は談話室の扉を開けると、いつものように、まるでいつもの買い物から帰ってきたときのように、何でもなかったかのようににこにこ笑ってそこに立っていた。 「・・・ナツ」 「ナツさん!」 「どうしたの、皆、怖い顔して」 慌てて一禾がダイニングテーブルから立ち上がって、座っていた椅子が派手に音を立てる。紅夜もその音を聞いて、はっと我に返っていた。 「ナツ!大丈夫、だったの」 「え、大丈夫だよー、一禾、俺のこと心配してくれてたの?ほんとは俺のこと好きじゃんー」 「茶化さないでよ!なんで、警察に逮捕されたんじゃ・・・」 「だからー、俺は誘拐も、監禁もしてないんだって、ね?」 「・・・ーーー」 そういつもの調子で言って、パフォーマンス的に片目を瞑る夏衣を見ながら、一禾は体の力が全部抜けるかと思った。夏衣はいつも通りで、一禾のよく知っている訳の分からないことばかり言っている夏衣のままで、きっとこのままでこれからの生活も変わらないで続いていくのだろうと思ったら、不思議なまでに急に安心することができていた。夏衣はにっこり笑ったまま、部屋の中を見渡すと、談話室の一番奥のソファーに座っている鏡利のことを見つけて、少しだけ頭を下げるようにした。 「・・・京義」 そうして小さな声で呟くと、後ろを振り返った。するとそこから、夏衣が呼び掛けてからしばらくの無音の後、京義がゆっくりと顔を覗かせた。その表情は不貞腐れているようにも見えたし、夏衣が背中を押して渋々といったような表情にも見えた。今度は鏡利が慌てたように、一番奥で立ち上がった。 「京義・・・!」 「・・・ーーー」 鏡利の呼び掛けに、京義は分かりやすく眉間にシワを刻んで、渋い表情を浮かべた。そうして夏衣のほうを、助けを求めるみたいに、見上げたけれど、夏衣は京義の方は見ておらずに、ただ鏡利のことを眺めていた。まるで京義にも今見るべき人が誰か教えているみたいに。京義は諦めて、仕方なく鏡利のことを真っ直ぐ見つめた。長い間会っていなかった父親の風貌は、幼い時に見たことがある、その記憶から少しも変わっていないような気もしたけれど、もしかしたら全然違ったのかもしれない。 (老けたな、随分) 京義の記憶の中では、物心ついた時には、既に父親の姿は家の中のどこを探しても存在しなかった。一年に一回くらい、日本には帰ってきていたようだけれど、その父親という名前の生き物とほとんど一緒に過ごした記憶はなかった。だからこうして向かい合っていても、父親という名前の、全く別の誰かだったとしても、もしかしたら気がつかなかったかもしれない。 「・・・ごめんね、京義。僕が悪かったよ、全部」 「君たちはまだ子どもだったし、本当は僕が側にいるべきだった、大変な時に側にいられなくて、ごめん」 そう言って、鏡利は頭を下げた。京義はそれを目で追いかけながら、三森が欲しかったのはこれだったのだろうかと思った。本当は鏡利が悪いわけではないことは分かっていた、三森が憎んでいるみたいに、燃え上がるほどの激しい憎悪が京義の中にあったかと言えば、それはほとんど疑わしくて、三森に後で植え付けられた産物と自分の生身の感情とは、最早見分けがついていなかった。 「・・・違う」 「えっ」 鏡利が顔を上げて、それを見ながら、京義ははっきりと違うと思った。もしかしたらこれは三森が欲しかったものかもしれないけれど、京義が欲しかったのはこれではなかった、確実に。 「側にいて欲しかったのは、エマだ。俺たちじゃない」 「・・・そっか」 「俺たちは、お前なんかいなくても大丈夫だった、生きてられた。でもエマは」 「・・・ーーー」 『鏡利さんに会いたい』とエマが言わなければ、三森も鏡利のことをこんなに恨むことはなかったかもしれない。「俺たちではダメだ」と三森は泣いていたけれど、京義はエマの手を、その昔美しいソリストだった母の手を握りながら考えた。彼女の言いたいことはきっと、言いたかったことはきっと、そんなことではなかった。自分達が役不足だから、彼女は『鏡利さんに会いたい』と呟いたわけではなかった、きっと。最期は家族と一緒にいたかったから、その時鏡利だけがぽっかり空いた最後のピースみたいに、家族の中に足りていなかったから、だから彼女はきっと、朦朧とする意識の中でそう呟いたのだろう。 「エマはお前に、会いたがってたんだ、最後まで」 「・・・そうか、ごめんね」 「・・・ーーー」 「最後にエマちゃんの側にいてくれて、ありがとう、京義」 鼻の奥がつんと痛くて、京義はもしかしたらこのまま、自分は鏡利の前で泣いてしまうのではないかと思った。そんな無様な格好は耐えられないと思った。自分は三森のように簡単に泣いたり、怒りをぶつけたりしてはいけないと思っていた。その時ぽんと背中に何か触れたような気がして、京義はちらりと隣を見ると、夏衣が京義の背中に指先だけで触れていて、それがゆっくり動いて、背中をぽんぽんと叩くのが分かった。 「・・・お前のことを、許したわけじゃないから」 「・・・うん」 鏡利が小さく呟いて、これで終わりだと思った。本当にこれで終わりでいいのか、終わりにしてしまっていいのかどうか分からないし、きっと三森がいたら、こんなことを京義には許さなかったかもしれないけれど、京義の側にはもう余りあるプレッシャーで自分をコントロールしようとしてくる三森はいなかったし、どこか的外れだった憎悪もどこかへ消えていた。 その昔、自分のことを優しく肯定してくれる母親は病理に侵されて、家の一番日当たりのいい部屋で眠っていた。誰も自分の苦しさや傷つきを理解してくれないと思っていたけれど、母親だけは京義の手を握って、いつも同じように笑ってくれていた。母親が病気ではなくて、元気でいてくれたら、きっともっと自分の世界は広くて明るかったかもしれないと、アップライトピアノを弾きながら思ったこともあったけれど、彼女が病理に蝕まれていたからこそ、ほんの小さな明かりでも大事に思うことができた。 「京義はピアノ、続けてね」 彼女が望んでいたことは、きっとこんなシナリオではなかったかもしれないけれど、それでも良かった。 (エマ、俺は、こいつを許して、前に進むよ) 歪でもいい、それが家族の形なら、それでも良かった、きっと。

ともだちにシェアしよう!