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主よ人の望みの喜びよ Ⅲ

それから、鏡利は「お邪魔しました」と簡単に夏衣に挨拶をすると、思ったよりもずっとあっさりとホテルから帰っていった。その背中を便宜上、一応見送りながら、一禾は隣でにこにこしながら手を振る夏衣をちらりと見やった。嵐みたいな一日がそうして終わろうとしていたけれど、それで全てが元に戻ったわけではないことを、一禾だけでなく、きっと夏衣も分かっていたはずだったけれど、まるで知らないふりをする夏衣は、一禾には酷くあからさまに見えた。まるでそれ以上、誰からも追求してほしくないみたいに。 「・・・ねぇ、ナツ」 「なに?あのさ、俺思ったんだけど、京義のお父さんってさ、なんか京義に凄い似てるよね。京義も大人になったらあんな感じになるのかなぁ」 そんなことどうでもいいと思いながら、靴を脱いでホテルの中に戻る夏衣の背中を眺めた。ふっと一禾の返事がないことを訝しがるみたいに、夏衣の頭が動いて、まだ靴のままでポーチに立って、不機嫌そうな顔をしている一禾と目があった。 「なに、怖い顔して」 「だから茶化さないでよ。もう全部、分かるように説明してよ、ちゃんと」 「えー、別に茶化してないんですけど」 「それは良いって、ほんとに」 言いながらにこにこ夏衣は笑って、それにしなくていいことだと分かっているのに、一禾はイライラさせられる自分のことを止めることができないでいる。まるでそんなことは子どものすることだと言われているみたいで悔しかったけれど、本当はもしかしたら、黙って知らないふりをしているのが正解なのかもしれないけれど、一禾はそうすることができなかった、どうしても。 「京義の親と話つけてなかったの」 「あー、うん。まぁ。だって京義が親なんていないって言うからさぁ」 「そんなこと本気にして・・・嘘に決まってるじゃん・・・」 「ほんとだよねぇ、壮大な親子喧嘩に巻き込まれちゃった」 夏衣はあははと笑い声を上げて、その割りには全然困っている雰囲気がないと思いながら、一禾は唇を噛んだ。確かに自分も夏衣がそういうことはちゃんとしているはずだから、きっと大丈夫だと思って、京義のことは本人が喋らないから、良く分からなかったけれど、そのままにしていたことも、きっとこんな風に拗れてしまった原因のひとつなのだと思ったら、夏衣だけをそれ以上問い詰めることはできなかった。 「京義、本名で学校なんかに通ってて、一年も警察が見つけられないなんてことあるの」 「ほんとだねぇ、日本の警察ってもう少し優秀だと思ってた」 「ナツだって、逮捕されてたはずなのに、釈放されるの早すぎない?」 「えー、まぁ、俺は冤罪だってすぐ分かったからさぁ」 かくんと小首を傾げて、夏衣は間延びした返事をして、一禾の追求を交わしているつもりだった。勿論、そんなことは一禾には到底話せないからくりの話だったし、話すつもりもなかった。夏衣自身、いつか京義は見つかり、親が追いかけてくる日が来るのだろうとぼんやり考えていたけれど、こんな風にホテルの中を引っ掻き回される結果になることは、予期していなかった。だから一禾の追求を交わすための何かを持っていたわけではないし、ただのらりくらりとすることしかできなかった。 「ほんとに、心配したし、怖かったんだよ」 「えー、一禾俺のこと、ほんとは好きなんじゃん」 「茶化さないでよ、俺は本気なんだよ」 「俺も本気だよ」 相変わらずにこにこ笑う夏衣を睨み付けるようにすると、夏衣はふっとその表情の温度を解いた。 「ごめんね、一禾」 「怖かった」と呟いたら思ったよりしっかり声が震えて、本当に怖かったのだと、一禾は思ったけれど、それが夏衣に伝わっているのか分からなかった。けれど夏衣はにこにこ笑うのを一旦止めて、少しだけシリアスな顔をしていた。欲しいのはそれではなかったし、そんな謝罪になんの意味もないことは分かっていたけれど、夏衣が本当のことをこれ以上、自分に説明する気がないのは分かった。 「分かってると思うけど、ナツがいなくなったら俺たちここに住み続けられないんだからね」 「俺の心配より、自分の心配ってこと?なんか今、ラブが生まれそうだったのになぁ」 「そんな気持ち悪いもの生まれないから」 「えー」 唇を尖らせて夏衣が言うのに、一禾は少しだけほっとした。こんなやりとりはいつもの延長線上で、自分の日常が崩れずに明日も続いていくのだと、ようやく思えた気がした。 「もう、こんなことないよね、隠してること、ないんだよね」 「ないよー、たぶん」 言いながら夏衣はくるりと一禾に背を向けて、談話室の方に向かって歩き出した。一禾も慌てて靴を脱いで夏衣の後ろを追いかける。 「多分じゃ困るんだよ、紅夜くんは大丈夫なんだよね?」 「紅夜くんは大丈夫だよ、あの子はほんとに家族皆いないから」 「・・・だったら良いけど・・・」 だったら良いのだろうか、一禾はそう夏衣に返事をしながら、それで答えはあっているのかと思って不安になった。それ以外の言葉のほうが似つかわしい気もした。 「でもさ、京義はこれで家に帰っちゃうわけだから、ちょっと寂しいよね」 「・・・うーんまぁ」 「俺は京義の毒舌なところ、結構気に入ってたんだけどなぁ。紅夜くんも寂しいだろうに」 「でもまぁ、帰れるところがあるなら帰ったほうがいいよ」 一禾が何気なくそう呟くと、夏衣は談話室の扉を開けると同時に振り返って、一禾のほうを見た。何か言うのかと思って一禾が身構えていると、夏衣はただじっと一禾のことを見ただけで、黙ったままでしばらく待っても何も言わなかった。 「・・・な、なに?」 「いやぁ、別に」 その時の夏衣の妙に含みのある言い方が気にならなかったわけではなかったし、夏衣がその時眼鏡の奥の光彩を光らせて、言いたいことがあるのも何となく分かったけれど、一禾はそれ以上は自分の不利になることになりそうだったので、黙っていることにした。 「寂しいから、なんかその辺でまた家出少年拾ってこようかな」 「もう、絶対、止めて。懲りたんじゃないの、今回のことで!」 「えー、だって部屋も余ってるしいいじゃん。京義レベルの子見つかるかな、それが問題だよね」 「絶対、駄目だから。もういい加減にして」 一禾は夏衣の背中に向けて、そうやって声を張り上げたけれど、夏衣はあははといつものように乾いた笑い声をたてるだけで、本気か嘘かなんて最後まで分からなかった。

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