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主よ人の望みの喜びよ Ⅳ
「京義、おはよう」
次の日、京義がいつもの時間に目を擦りながら談話室へ降りると、キッチンにいていつもの紺色のエプロンをしている一禾がそう声をかけてきた。
「・・・おはよう」
「先食べちゃって、もうすぐお弁当できるから」
「・・・ーーー」
普通だった。それが京義の日常になって久しい。京義は目を擦るのを止めて、ぼんやりと一禾の背中を見ていた。すると視界に紅夜が強引に割り込んでくる。
「京義、はよ食べや、遅刻するで」
紅夜は朝が強くて起きるのがいつも京義より早かったから、京義がいつも談話室に降りてくる頃には、朝御飯を食べ終わっていることが多かった。紅夜は朝早くに起きているけれど、特段何をしているわけでもなく、一禾を手伝うでもなく、新聞を夏衣に渡すと、いつも染が座っているソファーに座って、朝のニュースと天気予報を見ている。染はこの時間に起きていることは珍しく、1限目から授業があるとか、そういう理由でなければ大抵は部屋の中でまだ眠っていた。京義はダイニングテーブルの椅子を引いて、そこに座った。一禾がキッチンから持ってきたトーストとサラダが並んでいる。
「おはよう、京義」
新聞のがさがさという音がして、視線を上げると夏衣がそこに座っていた。僅かにインクの新聞の臭いもしてくる。京義は黙ったまま、トーストにバターを塗った。これが自分の日常になって久しい、それが始まった頃は、それが終わる時がくることなんて考えたこともなかった。
「夏衣」
「なに?」
「今日、帰るの遅くなるから」
「うん、分かった」
そうやって笑う夏衣のことを、京義は目を細めて見ていた。それが日常だった、昨日まで、それが自分がはじめて選んで掴んだ、自由という名前の、日常だった、確かに。
「なぁ、京義」
相変わらずバスは時間を守らないので、紅夜が「遅刻する」と騒ぐので急いで出てきたのに、一向に姿を見せようとしなかった。夏休み中にある夏期講習はそろそろ終わろうとしていたけれど、夏はまだギラギラと真上にあり、日陰のないバス停に立っているだけでも汗をかくような、そんな日だった。
「なに」
「家、帰るん」
「・・・ーーー」
紅夜が短く呟いたそれに、京義は黙っていた。ちらりと少しだけ後ろに立っている紅夜のことを見ると、紅夜は目を伏せていて、視線は合わなかった。
「なんで」
「なんで・・・?そりゃ・・・家族がおったら家族といたほうが、ええやろ」
「そんなことお前の決めることじゃない」
いつか同じようなことを夏衣に言ったような気がして、京義はその事を思い出そうとしたけれど、いつのことだったか、思い出すことはできなかった。
「・・・ほんなら、ホテルにおるん」
「・・・ーーー」
それにも答えられないと思ったけれど、紅夜の顔が思ったよりずっと暗く、沈んでいるように見えたから、京義は何か言わなければいけないと何となく思っていた。それは紅夜を慰めるための言葉だったかもしれないし、他の何かだったかもしれない。
(随分、人に優しくするようになってしまったんだな、俺も)
(慰める、なんて)
まるで自分を俯瞰するみたいにしながら、京義は考えていた。夏衣に捨てられた動物みたいに拾われて「ホテル」に来て、確かに良いことばかりでもなかった。だけど、悪いことばかりでもきっとなかった。エマが死んでしまった時、確かに心臓を深く握られるような気持ちがして、二度とこんな気持ちを味わいたくなかったから、自分の世界に他人が入ってこないように、確かに一線を引いたはずだった。髪の毛をブリーチしたのも、他人と関わり合いになりたくなかったから。こうしておけば向こうから京義のことを避けて通ってくれたから、その分で言えば都合が良かった。けれど一禾は勝手に心配してくるし、紅夜は線を引いたはずの世界に、ずかずか土足で入ってきて、勝手なことばかり言うのだった。それが鬱陶しかったこともあったけれど、慣れてしまったのか、他に理由があるのか、京義はその時、俯いて勝手なことを言う紅夜のことを、昔ほど鬱陶しいとは思わなかった。
「や、やっぱり、帰るんやろ」
「・・・さぁ」
「そのほうがええ、だって、俺だって、家族がいたら、一緒にいたいって思うもん」
絞り出すように紅夜はそう言って、しばらくそのまま俯いていた。その時の京義の顔なんて、とても見れそうになかった。怖くて、京義がどんな返事をしても、それが怖くて、自分からその話をしはじめたくせに、そのことを後悔するくらいには。
「京義、家、どこなん。転校する?」
「・・・さぁ」
「家、帰ってもたまにはホテルに来ぃや。待ってるで」
顔を上げてできるだけ笑顔を作ったつもりだったけれど、その時思ったより京義が優しい表情をして、といっても、それは京義のレベルだったから、他の人が見れば、いつもの仏頂面と何ら変わりなかったかもしれないけれど、それで自分のことを見ていて、紅夜は息が詰まってそれ以上呼吸できなくなるかと思った。京義はいつからこんな顔ができるようになったのだろう、考えても分からなかった。ずっと見ていると涙が出そうだったから、紅夜はふっと京義から視線を反らした。
(いややなぁ)
(こんなん言うても無駄なん分かってるけど、家族みたいと、本物の家族は違うの、分かってるつもりやけど)
本物を目の当たりにしても、紅夜はそれがそんなに眩しく見えなかったことに、少しだけ驚いていた。今までの自分なら、他人のそれでも羨ましくて欲しかった。要らないのならちょうだいと、思ってしまうくらいに飢餓していた、自覚があった。
(俺にとっては、もう皆、家族やねん、もん)
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