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主よ人の望みの喜びよ Ⅴ
302・主よ人の望みの喜びよⅤ
ボーイに案内されるがままに着いていくと、一番奥の個室に通された。その部屋の壁は全面ガラスばりで、その奥に東京の目映いばかりの夜景が見えた。京義には値段など分からなかったけれど、ホテルの最上階に位置するレストランに自分が相応しくないのは、理解しているつもりだった。それでも父親はこういう方法でしか、愛情表現ができないことも、何となく分かるような気がしたし、父親にはそれしかなかったから、悪気がないのも良く分かっていた。
「京義!」
鏡利は既に部屋の中にいて、白いテーブルクロスが丁寧にかけられた人数に相応しくない大きさのテーブルの前に座っていた。入ってきた京義を見つけると、立ち上がって大袈裟に手を振ってきて、きっとこの人の目には、自分はまだ小さな子どもみたいに映っているのかもしれないと思った。確かに家にほとんどいなかった鏡利の記憶は朧気であり、電話でも三森がほとんど話していたから、京義は鏡利を目の前にしても、思ったよりも昔の記憶が喚起されないことに、自分のことだったが、少しだけ戸惑っていた。
「来てくれてありがとう」
「・・・ーーー」
人の良さそうな顔でにこにこ笑って、鏡利はそう言って、京義はそれに何を言ったら良いのか分からず、ただ黙っていた。三森もエマも「京義の顔はどちらかといえば鏡利に良く似ている」と言っていたけれど、京義自身はそんなことは一度も思ったことはなく、寧ろ人当たりの良い鏡利と自分は全然似ていないと思っていた。京義は黙ったまま、おそらく自分に用意されたであろう椅子を引いて、そこに座った。鏡利は京義が何も言わないので、流石に戸惑った雰囲気を出しながら京義から何テンポも遅れて椅子に座る。
「京義、学校、頑張って行ってるんだね、成績も良いって聞いた」
「・・・誰に」
「あの、ホテルにいた、紅夜くん」
音もなく前菜が運ばれてきて、京義の目の前にもそれが置かれる。そんなものよりも、一禾の作ったご飯が食べたいような気がしたが、今日の自分の分はきっと用意されていないだろうと思って、京義は仕方なく重たいフォークを手に取った。
「嫌味か、相原のほうがずっといい」
「・・・そういう、意図じゃなかったと思うよ」
困った顔をして、鏡利は眉尻を下げて笑った。不思議だった。エマが死んでしまった時、確かに父親にはもう会わないだろうと思ったのに、こんなに簡単にそれは覆って、自分は父親と食事をしているなんて、京義にはまだとても信じられなかった。
「ピアノもまだ続けてるんだって」
「・・・あぁ」
「そっか、きっと京義はいいソリストになるよ。エマちゃんがそうだったように」
「・・・ーーー」
少しだけ遠い目をして、まるでエマをそこに見ているような目をして、鏡利がそう呟くのを、京義は黙って見ていた。エマが死んでしまったことで、傷を負ったのは自分達だけではないと分かっていたけれど、それをまた見せられているみたいな気分になった。
「ミリは?」
「え?」
「ミリとは連絡取ってるのか」
「ミリくんは今、坂下くんと一緒にいるよ、元気だって」
最後に坂下に言い残してきたことを思い出しながら、京義は味のしない葉っぱを口に押し込んだ。坂下は自分との約束を守ってくれて、三森がどこかで、どこでもいい、安全な場所で過ごせているのなら、誰かが三森と一緒にいてくれているのなら、きっとそれ以上のことはないと思った。
「きっと俺とはまだ会ってくれないだろうから、ミリくんに会えるようになるのは、きっともっと後かもしれないけど」
「また、三人でご飯でも食べたいね」
そんな日はきっと訪れない、それに曖昧な返事をしながら、京義は思った。三森はきっと鏡利を許さないだろうし、鏡利を許した京義のことも許さないだろうと思った。それをきっと鏡利も分かっているだろう、だから「いつか」なんて曖昧な言い方しかできないのだろう、考えながら京義はそっと目を伏せた。できることならば、こんな風に三森の知らないところで三森を裏切るみたいなことをしたくなかったけれど、どんな酷いことを言われても、どんな酷いことをされても、本当は最後まで三森の味方でいたかったけれど、手放しで三森にコントロールされていた頃の自分には戻れないと京義は思った。もう自由を知ってしまった後だったから。それでも自分のたった一人の兄だったから、三森もどこかで元気にしていれば、それが分かればそれで良かった。そう思うことしか、もう京義は三森にしてやれることがないと思った。
「オイ、ガキ」
トイレから出てきたところで、ふっと後ろから声がしたので思わず振り返ると、しかめ面をした大人が壁に凭れるようにして立っていた。知らない大人だったけれど、こんなところをうろうろしている子どもはどう見ても自分くらいだったので、きっと自分に言ったのだろうと思っていると、その男は壁から体を離して、ゆっくりと京義の近くまで近寄ってきた。
「ガキ、何で今頃出てきた」
「・・・なんだお前」
「ずっと行方を眩ましてたら良かったのに、今頃出て来やがって邪魔するなよ」
手が振り上がるのが一瞬だけ見えて、京義がガードするより速く、制服の襟首を掴まれて、京義は一瞬呼吸ができなくなった。
「鏡利さんの、邪魔だけはするなよ」
「・・・ーーー」
低い声でそう囁かれて、次の瞬間には京義の襟首を掴んでいた手はゆっくりとほどかれていた。
「中舘ー!」
廊下の向こうから鏡利の声がして、目の前の男がふっと視線を送るのが見えた。京義も視線の先を追いかけると、鏡利がこちらに走ってくるのが見えた。
「中舘、ここにいたの、京義も」
「申し訳ありません、ご子息にご挨拶を」
「あ、京義会うのはじめて?俺の秘書の中舘」
そうして高いところから視線がゆっくり降りてきて、額に脂汗が浮いている京義の視線を絡めとるみたいに中舘はゆっくりと黙ったまま頭を下げた。
「はじめまして、京義くん。秘書の中舘です」
掴まれたところがじんじんと、まだ痺れているような気がした。
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