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主よ人の望みの喜びよ Ⅵ

部屋の中にはコーヒーの香りが敷き詰められていて、夏衣はそれを嗅ぎながら目を細めると窓の外を見やった。そこにはうっすらとしか見えない白い月が浮かんでいて、今日もそろそろ終わりを迎えようとしていることだけが分かった。自棄に静かな夜で、コーヒーを飲むことくらいしかすることができなかった。テーブルの上に置いてあったバニラ味のクッキーを摘まむと、空腹とは呼べないくらいのお腹の減り具合だったが、包装紙を破ってそれをほとんど無理矢理口の中に入れる。こうしてカロリーを摂取しておかないと、いけなくなったのはごく最近のことだったけれど、もうそれにも慣れてしまった。静かだった部屋の中に不意にとんとんとノックの音が響いて、夏衣は返事をしながら立ち上がった。扉を開けようとして、また眼鏡を外していたことに気づいて、一旦部屋の中に戻ろうとすると、背中の向こうでがちりと扉が開く音がした。 「・・・京義」 扉の向こうにはいつ帰ってきたのか知らないが、またそんなことを言っていると、一禾に怒られるかもしれないが、夕食の時には談話室にいなかった京義が立っていた。夏衣は慌ててテーブルの上に置いただて眼鏡をかけると、振り返って京義を見た。 「京義帰ってたんだ」 「さっき帰ってきた」 「そう。どう?久しぶりの家族水入らずは」 京義はそれには何とも答えないで、部屋の中に入ってくると後ろ手で扉を閉めた。京義がこちらの問いかけに答えないでいることも、夏衣にとっては慣れたことだったので、それには何とも思わなかった。ただいつも通りだと思っただけだった。 「話がある」 「いいよ、なに?引っ越しのこと?京義の家ってどの辺になるの、転校とかしなきゃいけなくなるのかな」 言いながら夏衣はまだ湯気を上げているカップを取り上げて、コーヒーを飲んだ。 「俺は、ここを出ていかない」 「・・・え?」 はっきりと京義が言った言葉は勿論、夏衣のところまで届いていたけれど、夏衣はそれを一度聞き返さなければいけなかった。湯気を吐き出しているカップを口元から話すと、そのもやの向こうに京義が見えた。自棄に強い目をしている京義のことが見えた。 「・・・どういうこと?」 「アイツはそもそも海外が拠点で日本にはほとんどいないし。家ももう売り払ってないらしい」 「・・・あー・・・そういう・・・」 何となくその時京義が言いたいことが何かは分かって、夏衣は少しだけ安心していた。どうしてその時、京義の理屈が分かって安心したのか、何を確かめたかったのか、自分が何に怯えているのか、夏衣には良く分からなかったけれど。ほっとしたらまた鼻孔がコーヒーの匂いを捉えて、夏衣は思い出したようにそれを一口飲んだけれど、まだ味は良く分からないままだった。 「海外、一緒についていっちゃえば、京義のしたいことならそこでもできるでしょ」 「いい。俺は日本にいる」 「じゃあお父さんに部屋でも借りてもらいなよ、無理してここにいなくても・・・ーーー」 「無理して、じゃない。俺が選んでそうした」 「・・・何言ってるの、京義」 それ以上、聞くのが怖いような気がしたけれど、夏衣はそれを尋ねることをやめることもできなかった。コップをテーブルの上に置くのと同時に、もうこれは飲まないで捨てるのだろうなとぼんやり考えた。 「夏衣」 そう言えば、そうやって京義だけが、このホテルにいる誰もが夏衣を「ナツ」と呼ぶのに、京義だけが真っ直ぐ突き刺すみたいな視線で夏衣のことを真正面から見つめてくる。強い目は、どれだけ京義の体を暴いても強い目のままだったし、夏衣はそれに正面から見つめられることに、段々と耐えられなくなっていることにも気付いていた。その正体の全てが、夏衣にはなかったものだと分かっていたからだろうか。 「お前が俺をここに連れてきて、嫌だったこともあったよ。お前のことを殺したいほど憎いときもあった」 「・・・じゃあ出て行けばいいじゃん、意地張ってないでさぁ」 「でも、悪いことばっかりじゃなかった」 「・・・ーーー」 「俺がまだピアノを弾けているの、お前がここに連れてきてくれたからだ」 こんなはずではなかったのに、そう思いながら、夏衣はそれでも京義から視線を反らすことができなかった。でも自分で描いたシナリオがどんなものだったのか、もう忘れてしまったのも事実だった。京義のホテルでの日常がすでに染み込んで取れなくなってしまっているみたいに、夏衣のそれも、最早日常になってしまっていたから。もう、そうではなかった日のことを、思い出すのは難しくなっていた。 「お前、俺たちに隠してることがあるだろう」 「・・・隠してること?」 「とぼけてんじゃねぇぞ、俺は絶対、お前に、それを吐かせるからな」 強い目をして、それ以上信じるものがないみたいに、京義がそう言うのに、夏衣は絶望的な気持ちになりながら、少しだけ口角が上がるのが分かった。 「・・・何、笑ってんだよ」 「・・・別に」 そんなことを考えてもどうせ無駄だったし、京義には絶対に辿り着けないことが分かっていたから、怖くなんてなかった。それが京義には分かっていないのだと思ったら、夏衣は笑うしかなかったけれど、同時に少しだけくすぐったいような不思議な気持ちがした。 (止めときなよ、京義。お前では絶対、俺のところまで届かない。そんなこと、やる前から分かってるんだからさ) それでも夏衣はそれを口に出して、京義に諦めることを提示しなかった。そうやって強い目に見られることが、その眼差しを向けられることが、本当は少し、嬉しかったのかもしれないし、心地よかったのかもしれない。だから無駄だと分かっていたけれど、夏衣はそれを止めなかった。 「京義、契約はどうするの、ここにいたいんなら、契約は続行だよ」 「・・・」 「悪いこと言わない、帰りな」 「契約は続行でいい」 京義は静かに呟いて、それはもうここに来る前からずっと、夏衣の部屋に入る前からずっと、考えていたことみたいだった。夏衣は京義がまさかそう返事をしてくるとは思わなかったから、面食らって慌てた。口の中がからからに渇いていって、自棄に冷静でいる京義に向かって、何と言うこともできなかった。怖いものなんて全部、なかったはずなのに全部、もしかしたら夏衣は自分が思っている以上に、この子どもは本気なのかもしれないと思った。それが自分の怯えていたものの正体で、京義はそれを夏衣に突き付けてくる存在へと、いつの間にか変わってしまっていたのかもしれない。 「・・・なんで」 情けないくらい声が震えていたのが、自分でも良く分かった。

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