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主よ人の望みの喜びよ Ⅶ

夏衣の桃色の光彩は微弱に震えていて、それが何を恐れているのか、京義には分からなかった。 「・・・なんで」 「なんで、自由になったんだよ、逃げられるんだよ、それなのに、なんで」 夏衣の目は確かにその時京義の方向を見ていたけれど、それはどこか京義を透かすようにして、まるで違うところを見ているみたいで、現実感がなく美しい色を揺蕩わせたまま揺れていた。夏衣に関しては一緒にいる時間が長ければ長いほど、分からなくなることも確かに多かったけれど、きっと分かったことも多かったと思う。夏衣がそうやって取り乱す時はいつも、京義とは目が合わなかった。だから京義はそれを見ながら、より一層自分自身の冷静さを保つことができていた。 「お前、学校の三者面談に来てくれたことがあっただろ」 「・・・え?」 「俺は、小さい時からエマは病気で家から出られなかったし、鏡利は家にいなかった。だからああいう学校行事みたいなものに、親が来たことは一度もなかった」 「・・・何の話してるの、京義。俺が言いたいのは、そうじゃなくて」 「だから嬉しかったんだ、お前が来てくれたことが。相原も言ってた」 「・・・ーーー」 「ありがとう」 それから京義はくるりと夏衣に背を向けて、自棄にあっさりと部屋を出ていった。扉の閉まる僅かな音だけが、部屋の中に響いて、それ以外は無音だった。京義が出ていったことで、夜に埋め尽くされた部屋の中にぽつんと一人だけ取り残された夏衣は、へたりと床の上に座り込んでしまった。こんなはずではなかった。京義を繁華街で見つけて、まるで捨てられた動物みたいに拾ってきて、確かに与えた物もあったかもしれないけれど、奪ったものの数のほうが圧倒的に多かった。多かったと思う。 (違うんだ、京義、こんなのは、違う) (逃げられるんだ、ちゃんと、逃げられるんだって、俺に、証明してよ) それがこんな結果に終わるなんて、どうかしていると思った。自分もいつかあの檻から出られると信じていたのに、扉が開いても、外に出られる自由があっても、それでも檻の中にいるなんて、そんな馬鹿みたいな選択があるなんて、知りたくなんてなかったのに。 (ありがとうなんて、言わないでよ) 知りたかったのは、そんな未来ではなかったのに。 「え!京義、ホテルに残るん?」 「・・・うるさ」 きゃんきゃんと紅夜が声を上げて、京義はポーズだけで耳を塞いだ。一禾がサラダの乗ったお皿を持ってきて、京義の目の前にすっと置いた。それは父親とホテルの最上階のレストランで食べたものよりも、ずっと美味しそうに見えたから不思議だった。 「え?なんで?なんで、帰らんの」 「紅夜くん落ち着いて、椅子座って」 「えー、だって」 興奮して机の上にほとんど乗り出していた紅夜は、一禾にそう窘められると、唇を尖らせて抗議しながら椅子に座り直した。 「家はもう残ってないらしいし、アイツは海外出張ばっかりだから」 「へぇ、そうなんだ。忙しいだね、お父さん」 一禾が紺色のエプロンを外してカウンターに置きながら、椅子を引いてそこに座って、そう呟くように言った。京義は確かに一禾の言う「お父さん」が鏡利のことだと分かっていたけれど、そうして一禾の口からそうやって聞くと、別の誰かの話をしているみたいな気がして、不思議な気分だった。「ホテル」の中ではそういえば、誰かがそう言ったわけではなかったけれど、家族の話はタブーみたいに誰もしないから、そんな話をテーブルを囲んでしていることに違和感がなかったといえば嘘になる。 「確かに鏡利さん、全然日本に帰ってこないって言ってたな」 「そういや染ちゃん、京義のお父さんの下でバイトしてるってことになるんだよね。不思議な縁だな」 「まぁ、言われてみれば、京義って鏡利さんに似てるよな」 「似てない」 いつもの仏頂面で京義はそう返事をすると、そうすることに決めていたみたいにスムーズな動作でタコとトマトのマリネを口に運んだ。 (・・・今、京義、染さんに返事した・・・) (京義が染ちゃんを無視しない日が来るなんて・・・) 一禾と紅夜はちらりと目を見合わせて、言いたいことを我慢しながら、視線だけで分かり合って頷き合っていたが、肝心の染はそんなことに気付いているのかいないのか、多分恐ろしい鈍感力で気付いていないようだったが、暢気に食事を続けていた。 「あー、良かった。京義がホテルから出ていったり、転校したらどうしよかと思ってたもん」 「良かったね、紅夜くん」 「うん、これで安心やー」 あははと声を上げて紅夜は軽快に笑っている。何が安心なのか、京義には全く分からなかったが、不思議と嫌な気分ではなかった。 「ナツも安心だね、これで」 ふっと一禾の視線が動いて、自棄に静かにご飯を食べていた夏衣に移る。京義は夏衣が手元に落としていた視線を上げて一禾を見て、それからゆっくり京義に視線を動かして、京義が自分を見ているのが分かると、あからさまにすっと反らしたのが分かった。 「うん、まぁ」 「ほんとに、だってナツ、京義が出ていったらまた家出少年捕まえてこようかなって言うんだもん。もう止めてよねー、でもそんなことしなくて良くなって良かった」 「え、ナツさんそんなことする気やったん」 「いや、だって皆が寂しがるかと思ってさー、紅夜くんだって京義が出ていったらどうしようって言ってたじゃん」 「そんな犬猫みたいに人間拾ってくるのやめろよな、ナツ」 「染ちゃんまで!俺を憐れみの目で見ないで!」 あははと染が笑って、いつも通りだと思った。これでいつも通りの日常が戻ってくるのだと思った。京義はじっと夏衣の目元を眺めていると、ふっと夏衣がこちらに顔を向けて、視線がまた交わった気がするけれど、夏衣はそれをすっと反らして、またどうでもいいことを流暢に喋りだした。それでも良かった、まだ時間はあった。そこまで辿り着くまでの時間は、まだ京義には残されているはずだった。

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