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窒息する大都会

「この度はご迷惑をおかけしてすみませんでした」 鏡利がそうやって頭を下げるのを見ながら、夏衣は大人はこんな風に謝ったりするのかと思いながら、それに何も言えないでいた。夏衣が黙っているので、鏡利はそろそろと頭を上げて、夏衣のことを正面から見た。確かに染が言っていたみたいに、その容貌は京義に良く似ていた。けれど彼の言葉なのか、柔和な物腰からなのか、京義の刺々しい雰囲気とはまた違うような気もした。 「こちらこそ・・・何か色々、すみませんでした・・・?」 「いえ、面倒を見てもらっていた上に、あの子ここから出ていかないと言っていて・・・」 「はぁ、聞きました、本人から」 それに何と返事をしたら良いのか分からず、適当に相槌を打つと、鏡利はもう一度頭を下げた。 「申し訳ないです。本当ならばこれ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないのに・・・」 「良いですよ、こっちは別に。他の皆も京義、くんが残ってくれて嬉しいって言ってましたし」 「本当ですか、すみません。正直助かります、僕も海外出張が多くて結局ろくに一緒にいてやることもできず・・・」 「はは、大変ですね、お忙しくて」 言いながら面倒臭いなと思ったが、大人は皆こんなことをして、話したくもない話をして、下げたくもない頭を下げて、そうやって社会で生きているのかと思うと、夏衣はとても自分はそうはできないと思いながら、唇を軽く噛んだ。京義の父親は夏衣にとって、京義にとってはどうなのか分からないけれど、夏衣にとってみれば分かりやすいほど、「ちゃんとした大人」だったから、相対していると自分の社会性の無さが浮き彫りになって気持ちが悪かったが、相手が「白鳥」の関係者でない以上、夏衣も普通に接しなければいけなかった。 (普通の人間って大変だな、俺にはやっぱり無理だ) 考えながら目の前に運ばれてきたアイスティーを、夏衣は飲んでいるふりをした。 「僕があの子にしてやれなかったことを、白鳥さんにはたくさんしてもらったみたいで」 「・・・え?」 「本当に感謝しています。あの子、口では絶対に言わないかもしれませんが、きっとすごく感謝しています」 「・・・あ、はは、いや・・・」 京義がそう言ったのだろうか、確かに三者面談の話しはしていたし、ピアノのことも言っていたけれど、夏衣にとっては、そんなことは京義に与えたものの中でも微々たるもののはずで、それよりもずっとずっと痛みのほうが大きいはずだった。痛みのほうが大きくなければいけないはずだった。曖昧に笑って誤魔化しても、何の意味もないことは分かっていたけれど、夏衣はそれにまだ自分は向き合う覚悟ができていないのだと思った。そうして今後、そんな覚悟ができる日がくるはずもなかった。 「ホテルに残るって言ったのも、あの子があそこで過ごすのが、自分にとって一番いいことを、きっと分かっているからなんだと思います」 そうなのだろうか、そんなことを言い切ってしまっていいのだろうか。夏衣は鏡利の向こうに京義を見ながら、それでも京義には直接それを確かめることはできないと思ってしまった。夏衣は口角を少し上げて、「一緒にはいられない」とはっきり言う鏡利の胸を突き刺すつもりで、言葉を選んだつもりだった。 「はは、それは・・・どうでしょう。俺は、家族なら一緒にいた方がいいと思いますけど」 「そうですね、そうかもしれません、でも」 そこで鏡利は小さく息を吸った。思ったよりも鏡利は夏衣の言葉には傷ついていないみたいで、それが本当の家族の絆で、きっと少しのことでは壊れないそれのことを、鏡利も京義も本当は信じているのではないかと、夏衣は少しだけ考えた。 「京義にとっては、皆さんはもう家族みたいなものなんだと思います」 そう言って微笑む鏡利に、夏衣は今度こそ何も言えなくなってしまって、ただ口の中にある空気を飲み込むことしかできなかった。そうしなければきっと、窒息していたかもしれないと思うほどに、その言葉は夏衣の首を簡単に絞めて、それは誰でもない、京義の本当の「家族」が口にした言葉だったから、夏衣はそれに自分のどんな方法でも抗えないと思った。 「鏡利さん、そろそろ」 「あ、ごめん。もう時間か」 鏡利の隣に座っていた秘書と紹介された男が、夏衣に聞こえるか聞こえないかくらいのギリギリの声でそう呟いた。すると鏡利は独り言のように呟いて、慌てた様子で急に立ち上がった。確かに忙しそうだと思いながら、夏衣はそれをぼんやりと目で追いかけた。 「すみません、白鳥さん。バタバタしてしまって」 「いえ、大丈夫ですよ」 「あの子にかかったお金は、必ず清算しますので」 「・・・あぁ」 鏡利が立ったまままた頭を下げて、夏衣の返事を待たずに中舘と共にカフェを出ていくのを、夏衣はそこに座ったまま、ただ眺めていた。 (お金を貰ったら、それが対価になるから、契約は打ち切りでもいいのか) ぼんやり考えながら、ストローで真っ黒のアイスティーをかき混ぜると、氷がカラコロと音を立てて少しだけ涼しいように錯覚できるような気がした。京義は「契約は続行でいい」と言っていたけれど、まるでそうはしないで済むような方法を、そうして無理矢理考えているみたいなことに、夏衣はまだ自分で気付いていなかった。もう京義はそういう役割を終えてしまったし、そういう意味では、夏衣にとって興味はなくなっていた。だから口惜しくはなかったけれど、別の誰かがその代わりになるかと言われれば、それも多分、また違う話だった。京義と同じ道を辿るなら、そんなことは一ミリも望んでいないことだったから、夏衣にとっては苦しい現実を見せられるだけで、だったら必要のないことだった。 (あの人、俺に大事な息子が犯されてるなんて思ってないんだろうな、それなのに俺にお礼を言ったり謝ったりして、ほんと馬鹿だな) そう思ったら口角が上がったけれど、前ほど楽しい気持ちにはならなかった。 「夏衣様、お帰りになりますか」 夏衣の丁度後ろに座っていた小牧が、振り向くことなく静かな声で夏衣にそう呟くのが聞こえた。確かに鏡利が去った以上、ここには用はなかった。急に現実に引き戻されたような気分だった。 「そうだね、買い物でもして帰ろうかなぁ」 「承知しました」 小牧が小さく呟くのを、夏衣は空を見上げて聞いていた。 (家族みたい、かぁ) いつかの自分の欲しかったものは、それだったのか、どれだったのか、もう思い出すことができないのだ。悲しいけれど。

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