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ピースディビデント Ⅰ
「京義ー、帰ろー」
それは2学期がはじまって、すぐのことだった。紅夜にとっては授業が終わると自分の教室から、嵐と一緒に京義のいる教室まで行くことが、ほとんどルーティンとなっていた。京義は教室の窓際の自分の席に座って、机に伏せって眠っていることも多かったが、今日は背中を椅子の背もたれにくっつけて、ぼんやりと外を見ていて、いつもよりも覚醒しているようだった。紅夜が自分のクラスではないクラスにずかずかと入って行って、そうして京義に声をかけてから帰るのを、京義のクラスメイトも分かっているみたいに、紅夜が来ると京義ではない生徒に声をかけられることも多かった。京義を遠巻きにしている生徒たちは、決して悪気はないようだが、京義とは仲良くできなくても、紅夜とは仲良くするつもりがあるらしかった。
「今日、音楽室寄ってく?」
「・・・今日はいい、帰る」
「なんだ、今日練習しないのか」
「バイトだから、今日」
鞄を肩にかけながら、嵐のそれに答えながら、京義はすたすたと歩き出す。京義は眠そうに欠伸をしながら、遠巻きにしてくるクラスメイトをひとつも気にする様子もなく、そのまま教室を横断していった。紅夜は慌ててその後ろ姿を追いかけた。
「紅夜くん、ばいばーい」
「あ、バイバイ、また明日」
丁度、教室の出入り口に座って、喋っていた女の子にそう声をかけられて、紅夜は一瞬足を止めて手を振るのを忘れないようにした。
「紅夜、知ってる子?」
「知ってる子?まぁ、名前くらいは」
「へぇ、仲良いんだ」
「仲良い?うーん、別にそういうわけやないけど。京義迎えに行く時いつもおるから・・・」
嵐が何を聞きたいのか良く分かっていない表情で、紅夜は頭の上にクエスチョンマークを出しながら、首を捻ってそう言った。紅夜はこの学校で成績が常にトップだったから、きっとここの生徒の中で、紅夜の名前を知らない人間はいなかった。京義や嵐とはまた別の次元で、紅夜は進学校という場所で、そういう意味で目立つ存在だった。本人にその自覚はないのだろうけれどと思いながら、迎えに来たのに先に行ってしまう京義のことを追いかける紅夜の横顔をちらりと見やった。その整った容姿については本人は無自覚みたいだったけれど、それが目立つ理由のひとつでもあったと思う。
「あ、唯ちゃん」
下駄箱の前の廊下に唯が立っていて、紅夜が思わず呟いたそれに反応してパッと顔を上げる。唯の周りには帰るために1階まで降りてきただろう女の子たちが群がっていて、それを上手く追い払えないでいたのだろう、相変わらず今日も面倒臭そうに眉間にシワが寄っていた。唯は大体自分の城である、生徒だけでなく他の教師たちからも「保健室」と呼ばれているが、正式な名称でいうと「健康管理センター」と呼ばれる部屋に籠っているはずだった。なぜそんなところをひとりでうろうろしていたのか分からなかったが、唯は校内にいると大体女子生徒に囲まれていることが多い。しかめっ面しかしないけれど、それでも唯みたいに若くて小綺麗な大人は、女子生徒にとってはおそらく貴重な存在なのだろう。
「おー、お前ら、帰りか」
「唯ちゃん何やってんの、こんなところで」
「何もやってねぇよ」
嵐が近づくと、女の子たちは顔を潜めて、慌てて唯に手を振ると、唯の周りからばらばらと離れていった。おそらくそれが分かっていて、唯はこちらの声かけに反応したのだろうと、急いで上履きを履き替えている女の子たちの背中を見ながら嵐は思った。もうそんなことは慣れていたけれど、何となくここまで露骨にされると、流石に心も痛むと思いながら、嵐が隣をちらりと見やると、そこで京義は眠そうに欠伸をしていて、女の子を散らした原因がまさか自分だとは思っていなさそうな顔をしていた。
「いいなぁ、お前らは。俺はまだ労働の時間だというのに」
「労働って何もしてねぇじゃん、女と喋ってただけじゃん」
「うるせぇな、それが俺の労働の全てなんだよ」
「威張ることやないやろ、唯ちゃん」
あははと紅夜が笑って、唯は嵐に向けていた視線をふっと紅夜に向けた。
「・・・ーーー」
「・・・な、なに?」
じっと見られて紅夜が吃りながら聞くと、唯は小さく首を振った。
「いや、元気そうだなと思って」
「・・・何やねん、元気やわ」
その時唯は、以前にホテルを抜け出した時のことを言っているのだと、紅夜は瞬時に分かったけれど、口の中でぼそぼそそう言って反撃するくらいのことしかできなかった。隣で聞いていた嵐と、聞いているのかいないのか分からなかったけれど、京義にはその会話の意味は分からなかっただろうし、ふたりには、特に京義にはそのことを聞かれたくなかった。
「唯ちゃん!なんだ、優しくしようと思えばできるんじゃーん!」
「はぁ?俺は優しさの権化なんだよ」
「優しさの権化はそんな眉間にシワ寄せてへんやろ・・・」
嵐がふざけた調子で唯の白衣の背中をばしばしと叩いて、唯が心底迷惑そうな顔をしているのも、ほとんどいつもの光景だった。
「じゃあなー唯ちゃん、労働頑張れよー」
「うるせぇ、さっさと帰れ」
顔をしかめた唯が手で追い払うようなジェスチャーをして、嵐は笑いながら下駄箱の方に向かった。そういえば京義の姿がいつの間にかなく、京義はもう自分の下駄箱からスニーカーを取り出しているところだったから、紅夜もそれを慌てて追いかけようとして、ぱっと振り返った。唯はそこにまだ立っていて、いきなり振り返った紅夜のことを見ているのと目が合う。
「唯ちゃん、借りてた服、今度持ってくるわ」
「あー・・・捨てろ、あんなもん」
「そういう訳には」
「良いんだよ、ほら、さっさと帰れ。お前も」
しっしと嵐と同じように手であしらわれて、紅夜は一瞬前を向いたけれど、もう一度振り返ってまだそこに立っている唯のことを見た。
「唯ちゃん、ありがとうな」
そういえば、そのことをまだ唯に言えていなかったような気がしていた。にこっと笑いながらそう言うと、唯はなぜかまた渋い顔をした。
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