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ピースディビデント Ⅱ
ぱっと嵐はその顔をきらきらと輝かせて、京義は嫌な予感がした。
「えっ、薄野のお父さんってefの社長なのかよ・・・?」
「うるさ・・・」
「なんか京義はええとこの子って感じするよなぁ、ピアノ弾けるのも教養やって言ってたし」
はぁと京義が小さく、しかし嵐には聞こえるように溜め息をついて、後頭部をがりがりと引っ掻く。鏡利の社会的な地位には小さいときから興味がなかったし、人当たりが良いせいで外聞が本質以上に良いことは、逆に京義の気持ちを逆撫ですることもあったが、純粋に驚いている嵐を見ていると、大概の人間の反応はこれであっているのだろうと思う。だから余り他人には知られたくなかったし、言いたくなかったことなのに、紅夜はホテルで鏡利と京義の帰りを待っていた間に話したのだろう、京義にはもうそれを止めることはかなわず、悪気なくべらべら喋る紅夜の横顔を、眉を潜めて見ることしかできなかった。
「お前のところだって、金持ちなんだろ」
「えっ、俺?」
「ハウスキーパーがいる家なんか普通じゃない」
「えっ、そうなん?ってかなんで京義そんなこと知ってんの?」
紅夜がふたりの間で首をきょろきょろ回しながら言う。確かにいつぞや不良に絡まれた京義を背負ったまま、唯に見捨てられたせいで、自力では学校から帰ることができなくなって、仕方なく自分の家のハウスキーパーを呼んだことがあったっけと思い出したけれど、その時京義は眠っていたような気もする。そしてそんなことがあったことなんて、紅夜には今まで話していなかった。何となく心配性の紅夜のことだから、話さないで済むならそれのほうが面倒臭くならないで良かった。
「俺ん家はあれだよ、両親が共働きで忙しいからさ。家のことができないから雇ってるだけで・・・」
「確かに普通やないな、嵐もそっち側の人間やったんか」
「そっち側ってなんだよ、オイ、薄野ずりぃぞ、てめぇ寝てたんじゃないのかよ」
「お前が先に言ってきたんだろ」
つんとそっぽを向いたまま、京義が呟いた時だった。目の前から走ってきた車が急に減速して、歩いている嵐の側に止まった。そして扉が開くと後部座席から、スーツ姿の男がひとり出てきた。ネイビーブルーにホワイトのストライプの走る細身のそれを美しく着こなしている男は、京義や嵐の進路をわざと塞ぐみたいに、歩道の中央に立って、そうしてかけているサングラスをゆっくり外した。
「あ、白橋さん!」
紅夜が声を上げて、京義と嵐は一瞬、少し後ろを歩いていた紅夜のことを振り返る。白橋は紅夜と視線を合わせるとにっこり笑った。
「紅夜くん、久しぶり」
「白橋さん、お久しぶりです」
そうまるでよく知っているみたいに言って紅夜は、京義と嵐の間から白橋に駆け寄ると、そのまま丁寧にスーツの男、白橋に向かって頭を下げた。その制服のシャツを後ろから引っ張って、嵐は紅夜にしか聞こえないくらいの小さい声で囁いた。
「紅夜、なんだよ、知り合いなのか?」
「あぁ、うん。俺のことナツさんの代わりに迎えに来てくれた人」
紅夜は一瞬振り返って、嵐に向かって何でもないことのようにそう言った。嵐はふっと白橋に視線を合わせてから、すぐにそれを反らした。紅夜が親しげにしている手前、上手く言えなかったけれど、唇に笑みを湛えているその人のことが、怖いような恐ろしいような、不思議な感覚がした。
「こんなところで何してはるんですか?」
「実は紅夜くんのこと探してたんだ、もうホテルに行って1年以上経つから様子を見に来たんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「ちょっと喫茶店でも入って話そう、車乗って」
「あ、分かりました」
白橋が降りたばかりの後部座席の扉を開けて、紅夜はそれに素直に返事をして車に乗り込もうとする。嵐は慌てて紅夜のシャツを後ろから掴んだ。
「オイ、紅夜」
「あ、ごめん。俺、白橋さんと一緒に行くから・・・」
「行くからって・・・大丈夫なのかよ」
「え?なにが?」
紅夜は嵐が何を言ってるのか、心配しているのかなんて気づいていないみたいにただ単純に不思議がって首を傾げる。その後ろには後部座席に乗り込んだ白橋が、やはり人の良い笑みを張り付けて紅夜のことを、そして嵐のことをただ見ていた。
「ソイツ、なんか、信用できる人間なのかよ」
「え?白橋さんのこと?」
「それ以外にいるかよ」
「大丈夫やって、嵐、何勘違いしてるのか分からへんけど、白橋さん弁護士さんやから」
目の前で紅夜がひらひらと手を振って、確かにそういう肩書きは一層白橋の人相を良く見せたりしたけれど、その時嵐が感じた嫌な感じを払拭するのには至らなかった。
「・・・けど」
「あ、京義。一禾さんに遅なるって言うといて」
「・・・分かった」
京義が小さく頷いて、紅夜は後部座席に吸い込まれると、目の前で扉がばたんと音を立ててしまった。そしてゆっくりと車は走り去っていく。
「・・・なんか、嫌な感じ、したけど」
「あいつが大丈夫だって言うなら、大丈夫なんだろ」
言いながら京義は、車の走り去った方向とは逆の方向に歩き始めた。嵐は後ろを気にしながら、もう車は既にそこから見えてはいなかったけれど、後ろを振り返りながら、京義の後をゆっくりついてくる。確かに一見人の良さそうにも見える白橋の笑みはどこかの誰かとそっくりで、背中を冷たい手で撫でられているような、そんな気持ち悪い気分のする笑みだった。
(・・・そうか、夏衣の)
(車を運転していたのも夏衣の連れてた、確か、小牧とか言う・・・)
車が走り去る一瞬、運転席の男の横顔が見えたけれど、確かにそうだったような気がする。小牧が夏衣以外の誰かと一緒にいるところをはじめて見た。三者面談に夏衣を連れてきた時も、繁華街で京義に声をかけて来た時も、「ミモザ」にピアノを見に行った時も、夏衣の後ろにぴったりと張り付いて、夏衣がにこにことするのに眉のひとつも動かさないで、自分達をまるで親の仇みたいな目で睨むように見ていた、確か。
(・・・あいつ、本当に夏衣の遠縁なんだな)
白橋の毒を孕んだ笑みは、強いて言えば夏衣に似ていた。
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