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ピースディビデント Ⅲ
「おかえり」
その日、京義が談話室の扉を開けると、そこにいたのは珍しく夏衣ひとりだった。いつものようにダイニングテーブルに座って、今日は分厚いハードカバーの小説を読んでいた夏衣は、そう小さく呟くと少しだけずり落ちてきた眼鏡を触りながら顔を上げて京義を見やった。いつも少しだけ、京義と二人きりの時、夏衣はいつもの取り繕っていないほうの自然な夏衣に戻ると京義は密やかに思っている。どっちが本当の夏衣かなんて、そんな線引きは無意味だと知っているけれど。
「あれ、京義ひとり?紅夜くんは?」
京義がピアノの練習がしたいとか、そういう理由で紅夜がひとりで先にホテルに帰ってくることは時々あったけれど、そういえばその逆はあまりなかったことに、京義はその時夏衣が不思議そうな顔をして自分にそう尋ねてくるまで、気が付いていなかった。嵐の不安そうな顔が、頭の中を一瞬だけ過る。夏衣はそのことを知らないでいる、これはポーズではなく。京義はそれにすぐには答えずに、いつも染が占領していることが多い、ソファーに向かって持っていた鞄を投げて、自分もそこにごろりと横になった。
「帰っている途中で白橋とかいう奴が来て」
「・・・―――」
「連れてったけど、お前何か知ってんじゃねぇの」
一瞬しか見えなかったけれど、運転席に乗っていたのは、いつも夏衣の側にいる小牧という男だったし、紅夜のことを迎えに行ったらしい白橋のことを、夏衣が知らないわけがなかったが、今日の訪問はきっと予定にはないことだったのかもしれない。証拠に夏衣はすぐに返事はせずに、珍しくシリアスな目のままで少しだけ黙って何かを考えているようだった。
「あいつ」
「・・・ん?」
「本当にお前の遠縁だったんだな」
そう言えばこういう会話をいつか夏衣としたことがあるような気がした。京義はソファーから体を半分起こして、自棄に静かにしている夏衣のことを振り返って見てみたけれど、夏衣はそこでテーブルに肘をついた格好で、確かに京義のそれに返事をしたけれど、全然違うことを考えているような表情をしていた。京義はそれに舌打ちをしたい気持ちになる。いつもこうやって何か、自分は何かから遠ざけられているような気がするから気にくわないけれど、夏衣にそれを言っても無意味なことはよく分かっていた。
「そうだよ、はじめにそう紹介したじゃん」
「遠縁って何なんだよ、お前があいつを面倒見ている理由は他にあるんだろ」
「紅夜くんって親がいないの、知ってるでしょ」
静かだった夏衣は急に饒舌になって、いつもの雰囲気を取り戻しながら、そう言って何かを飲んでいたらしいマグカップを持ち上げて立ち上がった。そうしてそのまま、キッチンに入っていく。京義はそれを目で追いかけながら、またはぐらかされている気分がして唇を一瞬噛んだ。
「知ってるよ、だからってなんでお前が面倒見てるんだよ、何なんだよあいつは」
「可哀想じゃん、親がいないなんて。京義はお父さんがいるから紅夜くんの気持ちは分からないんだよ」
「はぁ?」
そうやって急に夏衣が分かりやすい言葉で自分を遠ざけようとするのを見ながら、京義は眉をしかめた。今まで一度も、おそらく夏衣は父親の存在を知っていたのだろうけれど、京義の前では一度も、それについて言及したことがなかったけれど、ホテルに鏡利が来たことで、全てがオープンになったと思っているつもりなのか、父親のことを持ち出して紅夜と自分を区別しようとしているのがよく分かった。どうしてこんなに夏衣が目を合わせようとしないことにイライラしているのか分からないし、どう言ってもらいたいと思っているのか、どんな言葉が相応しいのか、京義にもよく分からなかったけれど、それでないことは事実だった。
「何だよ、それ。てめぇふざけてんのか」
「あの年齢で家族も全部失って、ひとりでなんで生きていけないでしょう」
「そういうこと言ってんじゃねぇ」
「京義こそどうしたの、今日なんか、イライラしてるね」
珍しく夏衣は大人のように、勿論京義からしたら夏衣は大人以外の何者でもなかったけれど、京義の周りにいる正論しか言わない大人のように振る舞いはじめて、京義はこんなことが聞きたかった訳ではないと思ったけれど、そのモードに入った夏衣に対して一体どうしたらいいのか分からなかったし、多分ここで押し問答を続けても、夏衣が自分に欲しい答えをくれる気は一ミリもしなかった。
「うるせぇ、もういい」
京義は床に言葉を叩きつけるみたいに呟いて、自分の鞄を拾い上げると談話室から出ていこうとした。すると談話室の扉が京義の思っている方向に勝手に開いて、そこから一禾がひょっこり顔を出した。京義はそのままの勢いでここを出ていくつもりだったけれど、一禾がやって来たことで少しだけ拍子抜けさせられて、そこに留まっていることしかできなかった。
「あれ、京義帰ってたの。おかえり」
「・・・ただいま」
京義にできたのは、そこで一禾にぶっきらぼうに、自分にできる精一杯の不機嫌で返すことだけだった。そのまま京義は一禾が開けた扉からよく伸びる猫みたいにするりと抜けた。廊下に出ていってそのまま階段を上っていく音が遠くで聞こえている。
「あれ、紅夜くんは?一緒じゃないの」
本当は京義に聞くべきだったそれを、京義が自室に帰ってしまったせいで聞く相手を失ってしまったせいで、仕方なく一禾は談話室に残っている夏衣に尋ねた。夏衣はキッチンで二杯目のコーヒーをドリップしていたところで、部屋の中にはコーヒーのいい香りが漂い始めている。
「今日は一緒じゃないんだって」
「へぇ、珍しいこともあるんだね。っていうか京義なんかイライラしてなかった?」
「そう?京義はいつもあんな感じじゃない?」
「いつもよりイライラしてたよ。ナツ、変なこと言ったんでしょう、どうせ」
「変なことなんて言ってないよ、言うわけないじゃん」
俯いてあははと笑いながら、夏衣は少しだけ目を細めた。
(京義には分からないんだよ、持たざる者の痛みなんてさ、だって君は、片方だけでも、十分に持ってるんだから)
分からないからあんな目ができるし、どうしてなのかなんて安易に尋ねることができる。知らないことは罪ではないが、無知は大罪だと思った。だから少しだけ、夏衣も京義に優しい言葉をかけてやる気持ちが薄らいで、流石に意地悪を言い過ぎてしまったかもしれない、そう思いながらでもきっと訂正なんてしないし、必要がないことも分かっている。出来上がったインスタントのドリップコーヒーはいつも同じ匂いと同じ味がして安心できた。いつも同じものは期待がないから裏切りもなくて好きだった。
(それにしても青磁 、俺にも黙って紅夜くんに会いに来るなんて)
本家の指示なのだろうか、だとしたら厄介だが手出しができないのも事実だった。小牧に探りでも入れてみようかと思ったが、そこの誰もが最終的には夏衣の味方をしてくれないことは、夏衣が一番よく分かっていることでもあった。だからそんなことは無意味だった。分かっていた。
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