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ピースディビデント Ⅳ

車内はいつもとは少し違う匂いがした。一禾の車に染み込んでいる花のような香水のにおいとも、唯の車のそっけないそれとも。何度か小牧の運転する車に乗ったことがあるが、その時は大抵夏衣が一緒にいたし、その時とも少し違ったかもしれない。 「紅夜くん久しぶりだね」 隣のシートからそう声が聞こえてきて、紅夜ははっとして白橋の方を見やった。白橋はそこで優雅に足を組んで座っていた。仕立てのいいスーツは細身で、痩身の白橋によく似合っていた。それは一禾がたまに背伸びをしたように着るスーツとも、夏衣が実家に帰る時にいつも着ている漆黒のスーツとも違って、まるで白橋のために作られたものみたいにぴったりとフィットしていた。紅夜はそれを伝えたいと思ったけれど、それをどういう表現で伝えるのが正解なのか、子どもの自分にとってはどんな言い回しも取って付けたような言い方にしかなりそうもなく、分からないから黙っているしかなかった。 「ほんとにお久しぶりです、会えてよかったです」 「もっと早く様子を見に来るつもりだったんだけど、遅くなってごめん」 「いいえ、全然です」 言いながら紅夜は、こんな時、自然に誰かに心配されるみたいな視線を浴びた時、一体自分がどんな表情をするのが正解なのか分からずに、白橋の柔らかい笑顔から少し逃げるみたいに視線を落とした。誰かにそんな風に心配されるよな経験が、紅夜にはやっぱり圧倒的に足りていなかった。ホテルに来てからもうそんなに時間が経つのかと思ったら、不思議な気分だった。ひとつの場所に長く留まっておくことは、紅夜の中では珍しいことで、白橋が突然会いに来たことが、ここ以外の場所に行かなければいけないという話ではなければいいのにと思いながら、そう言葉にしたら、それが現実になってしまいそうで、そうすると結局何も言えないでいた。 「夏衣さんは優しくしてくれてる?」 「はい、えっと。ナツさんはちょっと変なところもあるけど、優しいです」 「そっか、それはよかった」 そう言って白橋はまたふんわりと優しく笑った。社交辞令ではなくて、白橋が本当にそう思っているから笑っているみたいに紅夜には見えた。自分が出会った大人の中で、夏衣は特別異質だったけれど、紅夜の前ではいつでもにこにこ笑っていたし、酷い言葉を言われたことも、酷いことをされたこともなかった。それだけで紅夜には特別だったことを、白橋にどう伝えたら良いのか分からない。どんな言葉を繋げたとしても、同情を請うているみたいな気がして気が引けた。夏衣は特別変な大人だったし、時々夏衣が大人であることを忘れそうになるけれど、とにかく優しかった。紅夜の人生の中で、ただそれだけのことだったけれど、ただそれだけのことを自分にしてくれた大人ははじめてだったから、紅夜はその前でどんな風に振る舞ったらいいのか分からずに、戸惑うこともあったけれど、ただ普通にしているだけで、それでいいのだと思わせてくれる、はじめての場所であり、人だった。 「夏衣さんは元気にしてる?」 「あ、はい」 「そっかぁ」 言いながら白橋は目を細めて、まるで眩しい光でも見ているような顔をした。紅夜はそれを隣で見ながら、どうして白橋がそんな表情をするのか、その時はまだ分からなかった。 「良かった。紅夜くんが新しい環境に馴染めてて」 「馴染むのは得意なんです、引っ越しとか、多かったから」 「・・・そうだね」 笑った白橋の顔が分かりにくく半分影って、紅夜は余計なことを言ったかなと少しだけ思った。そうやって誰かの同情を請うてはいけないと、誰かに昔言われたような気がしたけれど、誰だったかすぐには思い出すことができなかった。そうやって嫌な記憶を、ひとつずつでもいいから現実から遠ざけて、ずっと遠くの方に追いやって、思い出さないように努めることで、紅夜は自分の周りがまるで安全に保たれているような気がしたけれど、それでもまだ自分で引いたはずの線から内側に、何か怖いものが急に入り込んでくるのではないかと思うと手足が冷たくなるような感覚だけがあった。 「あ、そう。ホテルの他の人もみんな面白くて」 「へぇ、そう言えば何人かで一緒に住んでるんだよね」 「そうなんです。一禾さんっていう人がめっちゃ料理上手で、ご飯がおいしいんです」 わざとらしく声のトーンを上げる紅夜を見ながら、白橋は唇の端を引き上げて、できるだけ表情が柔らかく見えるように努力した。紅夜の大人の雰囲気や表情を読む力は凄まじい、それだけひりついた環境の中に置かれていたのだなと思うけれど、紅夜は話し出すとそれを一切感じさせない明るさと和やかさも持ち合わせていた。夏衣が数多い遠縁の中から、同情だけで彼と一緒に暮らすことを選んだのかもしれないけれど、選ばれたのが紅夜で良かったのかもしれないと白橋は静かに思った。もっとも、彼が夏衣に選ばれたのが、一体どういう理由だったのか、白橋は知ることはできないでいたが。 (あなたの考えていることはいつも俺たちには分からないことばっかりだ、夏衣様) そんなことを分からなくても、分かったとしても、夏衣についていくことには変わりはないけれど、ホテルのことは数多ある夏衣の真意の不明な行動の中でも突出して、白橋には理解できないことのひとつだった。どうして夏衣があの白い洋館の中だけで自由を許されているのか。ひとりではなく何人かの少年たちと素性を隠すように生活をしているのか。白橋だけでなく、ホテルのことは本家の人間も誰も、正しく理解している人間などいないと白橋は勝手に思っていたけれど、本当のことはきっと夏衣にしか分からないことだった。まるで純粋な瞳で自分のことを見つめるこの少年のことも、ひとつも。 「それで、京義っていう、同じ学校に通ってる同い年の子もいるんですけど・・・」 「ふーん、それで?」 「なんか頭が真っ白で、いつも不機嫌やし、怖いんですけど、でもピアノがすごい上手なんです。あと、怖い時もあるけど優しい時もあって」 「良かった、紅夜くんが楽しそうで」 言いながら白橋が笑って、その表情はさっきみたいに影っているところがなかったから、紅夜はそれを見つけて少しだけほっとできた。 「ほんとに、東京に来るのはじめてやったから、はじめはめっちゃ怖いところやったらどうしようって思ってたけど。ナツさんもみんなも優しいし、楽しいです」 きっと夏衣も同じように思っている、聞いたことはないけれど、白橋は紅夜の顔を見ているだけでそのことだけは確信を持てた。それだけが分かれば白橋にとっては他のことはどうでも良かった。小さく息をつくと、紅夜がその茶色い目をつるりと輝かせた。 「白橋さん、なんで急に、会いに来たんですか?」 「え、紅夜くんの様子を見に来ただけだよ」 「他の理由はなくて?」 「うん、何かある?」 白橋がそうすっとぼけて答えると、紅夜はふっと小さく溜め息をついて、肩の力を抜いたように見えた。 「良かった。白橋さんが俺を迎えに来たんかと思いました」 「え?」 「ホテルから別のところに移れって言われるんかと思って」 そう言って紅夜は静かに安心したように、もう一度深く息をついた。そう言えば勝浦の家にいた紅夜を迎えに行ったのは自分だったなと白橋は思い出していた。

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