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ピースディビデント Ⅴ

夏衣がおかしなことを言い出すのはいつものことだったので、それもいつものことの延長戦みたいな感じだった、少なくとも白橋にとっては。 『相原紅夜って子がいるんだけど、その子のことを調べて欲しい』 「分かりました、何がお知りになりたいんですか?」 子どもと言えど、時々は白鳥の調査対象になったから、白橋は夏衣のそれを聞いた時、きっとどこかの刺客かそれか利権の絡んだ話かどちらかだと思っていた。夏衣が白橋に直接頼み事をしてくるのは珍しい、大体はそういう細々とした仕事は小牧がやっていることが多かった。そもそも東京にいる時は、夏衣は白橋に接触を禁止されていたから、こうして電話をかけてくること自体がひどく珍しかった。それは別に誰かにそう言われたわけではなかったけれど、白橋に用事がある時でも、夏衣は大体小牧か他の誰かを通して連絡してくることが常だったから、おそらくは本家の誰かに関係がクリアであることをアピールしたいがためのポーズであることは分かっていたけれど、夏衣は一体何をそんなに怯えていたのか、白橋には分からなかったし、そんなにも肩身が狭いのであれば、本家にいたほうが自由が利くのではないかと思っていた、その頃までは。 『とにかく分かること全部調べて欲しい』 「何かあったんですか」 具体性がない依頼に、少しだけ白橋は背筋が寒い気がした。夏衣の声はいつもの調子で、特に変わったことはなかったけれど、直接会って確かめることができない白橋にとっては、それが非常事態に思えて仕方がなかった。すると夏衣は電話口で少しだけ笑った気配がした。 『何にもないよ、青磁が心配するようなことじゃない』 「そうですか。その子が何を?」 『うん、引き取ってホテルで一緒に暮らそうかと思ってるんだけど、まぁ一応、素性は調べておいたほうがいいかなと思って』 白鳥本家の人間は、その年齢になると大体本家から通える大学に通うのが常であり、現に夏衣の弟である春樹も京都の大学に通っていたが、夏衣は珍しく東京の大学に通い、そのまま昔白鳥が持っていたらしいホテルをアパート代わりにして、どうやら身寄りのない子どもと一緒に暮らしているらしい。白橋は夏衣がそんなわがままを許されている経緯も理由も分からなかったけれど、夏衣は3ヶ月に一度くらい本家に帰ることを免罪符にして、東京で自由な生活を保証されている。自由を保証されていると言えば、聞こえはいいのかもしれないが、それは異分子の夏衣をただ本家から遠ざけるための手段だったのかもしれない。 「分かりました」 『お願いするね、できるだけはやく迎えに行きたいからできれば急いで欲しい』 「勿論です」 夏衣の依頼より優先順位の高いものなど、白橋にはなかった。それにそう答えると、夏衣は安心したように笑ったのが聞こえた。 「夏衣様、ひとつ聞いてもいいですか」 『なに?』 「どうして相原紅夜をお選びになったのですか」 『調べたら分かるよ、頼むね、青磁』 そう言って夏衣の電話は呆気なく切れてしまった。 それから数日後、白橋は相原紅夜がいる勝浦の家を訪ねていた。夏衣の電話の後、白橋になりに相原紅夜のことを調べてみたが、確かに白鳥の系列の家系ではあるようだったが、その血は本家とはほとんど繋がりがなく、一般家庭となんら変わりがなかった。どうして夏衣が興味を持ったのか、そもそも相原紅夜の存在を知ることになったのか、白橋にはそれだけの情報ではとても想像することができなかった。相原紅夜の特筆すべきところはただ一点だけで、彼はまだ子どもだったが、夏衣が白橋に電話を掛けてきた段階で既に家族を全員亡くしており、親戚をたらい回しにされているようだということくらいだった。夏衣の言ったことはこのことだったのか、それとも他の理由があるのか、白橋には分からなかったけれど、会った方がきっと話が早いだろうと思ってペラペラの資料を鞄に詰め込み、勝浦の家の玄関前に立っていた。 「なんかご用ですか」 勝浦の家は相原の家よりは少しばかり本家の血筋に近いところがあったかもしれないが、白橋の目から見れば一般家庭に過ぎなかった。インターフォンを押そうとしている時に、ふと近くからそう声をかけられて声のほうに目をやると、そこには目を不自然に腫らした紅夜が制服姿で立っていた。白橋は一瞬唾を飲み込んだけれど、その一瞬で夏衣の言っていることが理解できたような気がした。 「相原紅夜くん?」 「え、あ・・・はい」 勝浦の家には紅夜以外にも子どもがいることは調べ済みだったし、白橋は紅夜の姿を見た瞬間にこの子どもが夏衣の探しているらしい子どもであることを確信していたが、一応そうやって本人に尋ねることを忘れなかった。紅夜は白橋にそう声をかけたものの、おそらく自分に用があるとは考えていなかったのだろう。戸惑ったようにそう呟いて、小さく頷いた。夏衣が探している子どもが、どこの誰でもびっくりすることはないと思っていたけれど、その瞬間白橋は、夏衣の探している子どもが紅夜で、ひどく腑に落ちた気分だった。 「そっか、会えてよかった。君に会いに来たんだ」 「え、俺に?なんで、ですか」 茶色い目を思ったよりは良くない雰囲気で曇らせて、紅夜は汚れたスニーカーをわずかに後退させた。白橋はできるだけ柔和に笑って、そういう表情を作るのは得意だったから意識しなくても簡単に作ることができた、胸ポケットから名刺入れを取り出してそこから一枚引き抜き、紅夜に差し出した。紅夜は後退した足をまた少し進めて、素直にその名刺を受け取った。 「俺はね、白橋青磁って言って一応弁護士なんだ」 「弁護士さんが俺に何の用なんですか・・・?」 「あのね、紅夜くんが知っているか分からないけど、俺は白鳥夏衣さんって人のところで働いてる」 「白鳥・・・?」 紅夜の顔が一瞬引きつり、こんな末端の一般家庭と変わらない場所にいる家庭の子どもが、白鳥のことをどこまで知っているのか、字継ぎの白橋には到底分からなかったけれど、その反応ならば少しは聞いたことがあるのだろう、と紅夜の手の中でわずかに歪む名刺を見ていた。 「夏衣さんにお願いされてね、君のことを迎えに来たんだよ、紅夜くん」 「・・・迎えに?」 「うん、夏衣さんは東京に住んでる、君も同じところで暮らすんだ、いいね」 「・・・ーーー」 夏衣の決定を覆すことができる人間など、ここにはいなかった。紅夜は呆気にとられたようにその場で何も言わずにただ立ち尽くしていた。白橋はゆっくり手を伸ばして紅夜の赤く汚れた頬に手をやった。すると紅夜がぱちりと瞬きをしてその茶色くて丸い目からぽろりと涙が溢れた。 (夏衣様、夏衣様が何をしたいのか、俺にも少し、分かるような気がしますよ) 夏衣の見たかったものがこれだったのか、これじゃなかったのか分からない。でも白橋には何となく、確信さえ持てるような気がしたのだ。

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