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ピースディビデント Ⅵ
あの時ひどく汚れていたように見えた紅夜の頬は、つるりと白くて暗い車内でも少しだけ光っているようにも見えた。それだけで紅夜が十分健康でいることも、充実していることも、白橋には手に取るように分かった。あの時何も言えずに、本当は誰かに助けてほしかったのに、誰の助けも期待することすらできなくて、ただ震えて黙っていることしかできずに、たった一粒涙を溢すことしかできなかった少年のことを、もう遠い過去の出来事だったみたいに思い出しながら白橋は外の景色を見やった。
「白橋さん、ひとつだけ、聞きたいことがあるんですけど、ええですか」
「いいよ、なに?」
「・・・尚樹くんのことなんですけど」
その名前を呼ぶ一瞬だけ、紅夜は瞳を曇らせて口の中でボソボソと呟くように言った。白橋は尚樹の名前を聞いてもすぐには紅夜がそんな風に顔を曇らせる理由が分からなかった。
「尚樹くん?」
「あの、勝浦の家でお世話になっていた時に、俺と同級生だった」
「あぁ、勝浦の子か。その子がどうかしたの?」
白橋は何でもないことのようににこっと笑って、実際白橋にとってみれば、尚樹のことなどどうでもいいことなのかもしれないが、紅夜はそこにわずかな、暴力性が見えたような気がして一瞬それ以上白橋に尋ねることを躊躇った。時々夏衣の目の奥にも似たような暴力性を感じることがあって、夏衣はただの優しい大人ではないことを伺い知ることになるが、きっとそれを掘り下げてしまうと自分にとって不利なことになりそうだったので、珍しく紅夜は自分の保身のためにそのことを深く知ろうとはしなかった。それは紅夜の中にわずかに流れている白鳥の血が教えてくれている危険信号だったのかもしれない。
「この間、東京で偶然会って・・・」
「へぇ、あの子今東京にいるんだ」
まるで自然な相槌みたいに白橋がそう呟いて、紅夜は白橋がそのことを知らないのならば、今から自分が聞こうとしていることを、白橋は知る由もないことを聞く前から分かってしまったが、ここまできたら途中で言葉を止めることもできなかった。
「・・・尚樹くん、俺がこっちに来てから白鳥のせいで家族がバラバラになったって」
「へぇ」
言葉の持つ暴力性にまるで関心がないみたいに、白橋はまるで世間話を聞くみたいにそれだけ呟いて、紅夜はまたそのことを夏衣に尋ねた時のことを思い出していた。夏衣も確か驚きもせずに、同じような興味のないような返事をしていたような気がする。
「り、離散や言うてました」
「はは」
紅夜にとっては今でも声が震えるくらいのことで、決して笑い事ではないのに、白橋はその時その表情を柔和に歪めてまるで何でもないことみたいにそうやって笑うと、肘を車の肘置きに付くと、ふっと紅夜から視線を反らして窓の外を見やった。
「尚樹くんの家はほんまに離散したんです、か。ナツさんに聞いても・・・何も教えてくれんかったし」
「そうかぁ、俺も勝浦の家のことは知らないなぁ」
いつか夏衣に聞いた時も、同じようなことを言われたようなことを、紅夜は嫌でも思い出さざるを得なかった。紅夜はそれ以上白橋に聞いても、もし白橋がなにかを知っていたとしても、それを紅夜に教えてくれる義理はないのだと言われているような気がした。
「そっか、そうですよね、変なこと聞いて、すみません」
「気になるんだね、紅夜くん」
「あ、はい、まぁ・・・」
「そっかぁ、紅夜くんは優しいなぁ」
あの日以来、尚樹のことを街では見かけていない。本当に東京に住んでいるのか、それともあんなことは嘘だったのか、紅夜には確かめる術がなかった。でもあの日交差点で、はじめて自分にすがるような目をした尚樹が嘘を言っているようには見えなかった。だからきっと尚樹の言っていたことは本当なのだろう、紅夜にはとても受け入れるのは難しい話だったが、誰も真実を教えてくれないということはきっと、それが真実と言うことなのだろう。もしかしたら尚樹がでたらめを言っている可能性も少しはあった、ここで白橋が別の新しい情報を自分に教えてくれるのではないかと思って、それを聞いたら少しは安心して眠ることができるのではないかと期待していたが、やはりそういうわけにはいかないらしい。
「でも気にしない方がいいよ、そんな自分に関係のないこと」
「・・・え?」
にっこり笑って白橋は自棄に乾いた口調でそう言った。紅夜はそれに見覚えがある、と思った。何だったかはすぐには思い出せないけれど。
「そ、そうは言うても、最後にお世話になったところやし、尚樹くんは同級生やったし・・・」
「でも紅夜くんの今後の人生には関係ないでしょ」
からからに乾いた声で白橋が言う。決して冷たい言い方ではなかったけれど、聞いているだけで体の芯から冷えていきそうだった。
「・・・え・・・」
「紅夜くんは大丈夫だよ、夏衣さんが側にいてくれるから、あの人が守ってくれるから」
そうして確信的に白橋は呟く。守ってくれる?本当に?そのやり方は正しいのだろうか、間違っているのだろうか。どちらかだとして、それを誰が判断してくれるのだろう。それはどうやら白橋ではないことを、紅夜は暗くなっていく車内でゆっくりと理解させられていた。突き放しているわけではないけれど、なんだか聞いているだけでゾッとするような言い回しも全部、夏衣にそのことを確かめた夜と同じだった。この人たちが紅夜の預かり知らぬところで、紅夜には理解しがたい何かで勝浦の家に何かアクションを起こしたのは事実だった。でもそれは紅夜の望んでいた形では全然なかったけれど、そんなことすら、毛頭関係ないと言われているみたいで、では一体なんでそんな回りくどいことをしたのだろう、一体何の目的で。
「だから紅夜くん、分かってるよね」
「・・・ーーー」
白橋は外を見ていた目を車内の暗がりに戻して意味深に呟いた。
「夏衣様のこと、頼むよ」
相変わらず白橋は具体的なことを言わずにただ柔和に微笑んだだけだったけれど、全てを教えてもらえなくても紅夜にはその意味が少しだけ分かるような気がした。きっと少しだけ流れている白鳥の血が、何かあれば自分に危険信号を教えてくれるみたいなことなのだろうと思った。誰かにこのことを上手に説明をすることは少し難しいけれど。あの家に入ったことなんて一度もないくせに、まるで前からあの家の住人だったみたいに、その時白橋の体から毒ガスみたいなあの家の空気が流れ出しているような気がした。一度も踏み入れたことがなくても、嗅いだことがなくても、本能的に分かってしまうこともある。いずれこの密室はその毒ガスみたいな空気で埋め尽くされて、息ができなくなるのは分かっていたけれど、紅夜はここから脱出するすべを知らなかった、ひとつも。
誰が誰のことを守ろうとしていたかなんて、そんなこと忘れてしまった。
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