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ピースディビデント Ⅶ
車はいつものホテルに続く道をしばらく走ったところで不意に止まった。もう後何メートルでホテルに到着する、紅夜の目からは薄暗がりの中、ホテルについた明かりが見えるほどだった。
「紅夜くんごめんね、俺が送れるのはここまでなんだ」
「あ、いや・・・ありがとございます」
「紅夜くんと話せて楽しかったよ。またね」
白橋はそう言って笑って、紅夜は何か言おうと思ったけれど、背中でがちゃりと扉が開く音がして振り返ると、いつの間にか車を運転していたはずの小牧が扉を開けて、そこから紅夜のことを見下ろしていた。紅夜は慌てて鞄を掴むと車から降りる。小牧が無言で車の扉を閉めるのを見ながら、少しだけ追い出されたような気分になる。そのまま小牧は突っ立っている紅夜に目もくれることも、声をかけることもなく、黙ったまま運転席に静かに乗り込んでいった。紅夜はまだ何か白橋に言いたいことも聞きたいこともあったはずだったけれど、それを飲み込んで道路の脇からその黒塗りの車が遠ざかっていくのを見ていた。
(なんか、似てるな、白鳥の人達って)
夏衣は特別だったけれど、紅夜の目から見れば白橋だって遜色はなかった。全然違うようで本質は同じであることを、やっぱり誰にも上手く説明できる気がしない。紅夜はすっかり暗闇の中に車が消えてしまうのを見送ってから、くるりとホテルのほうに向き直ってあと数メートルの道のりを歩き始めた。
「俺、ちょっと余計なこと喋りすぎたかな」
長い足を組み替えながら、白橋は小さく呟いた。紅夜がさっきまで乗っていた車内には、確かにずっと小牧も乗っていたはずだったけれど、小牧はこういう時に背景になるのが得意で、だからきっと東京で一番夏衣の近くに置いてもらえているのだろうと白橋は誰にも言ったことはないが、ひとりで考えていた。白橋が一番側で夏衣と同行を共にできない理由はそれ以外だったけれど、そういう小牧のことが羨ましくないかと言われたら、白橋だって人並みに嫉妬することもあった。
「いいえ、そんな風には思いませんでしたが」
「そう、牧が言うならそうかな、牧はお世辞は言わないから」
「どういう意味でしょうか」
滑るように車の外から入ってくる光が、小牧の顔の半分を覆ったり消えたりするのを見ながら、白橋はひとつ溜め息を吐いた。小牧は自分の皮肉が分かっていなかったのか、それともそれを分かっていながら咎めるつもりでそう言ったのか、白橋には考えても分からないことだった。
「夏衣様はいつまでこんな馬鹿げたことをおやりになるつもりなんだろう」
「・・・人助けだとおっしゃってましたが」
「放っておけばいいのに、自分の人生に関係のない人間のことなんて」
そう呟く白橋の横顔は、いつもの柔和な笑顔は影を潜めて、ただ静かに冷たく凪いでいた。小牧はずっと前からずっと白橋のことは知っている。小牧の前で白橋はいつもそうだった、オフィシャルの場所ではにこにこと愛想よくしているけれど、スイッチをオフにすると途端にひどく冷たい表情をしていることが多くて、そういう切り替えの上手な人だったけれど、それ故の気苦労なんかもあるみたいだった。だからきっとこちらの白橋のほうが、ずっと素に近いのだろうことを、小牧は知っている。紅夜に伝えたことには必要なフィクションもあったけれど、それだけは白橋の本音だったのだろうと聞きながら思っていた。
(それは本当は夏衣様に伝えたいことなんじゃないですか)
聞きたくても聞けなかった。自分の人生に関係のない人間を集めて、あの白い洋館で夏衣がしていることを、誰も理解できなくても、自分だけは唯一の理解者の振りをして夏衣の側にいたい気持ちは、小牧だって同じだった。一方で白鳥とは関係ないところで、自分の人生を取り戻そうともがいている夏衣のことも、本当は少しだけ理解できそうな気がするのだから不思議だった。
(そんなこと考えたこともないんでしょう、あなたは)
白橋の横顔は、相変わらず冷たくて、きっと触ったら指先が凍ってしまいそうな気すらした。そんな馬鹿げたことを考えるほどには。
ホテルに戻るとまるで紅夜が帰ってくるのが分かっていたみたいに、夏衣がエントランスに立っていた。紅夜はそんなところに夏衣がいると思っていなかったので、ただびっくりして立ち止まってしまったが、夏衣はいつものようににっこり笑って、ずれた黒淵の眼鏡を引き上げた。
「紅夜くんおかえり」
「ただいま、ナツさん、俺のこと待っててくれたん?」
「うん、青磁、あー・・・白橋くんから送ったって連絡きたから、そろそろ帰ってくるかなって思って」
紅夜は白橋の名前を名刺で見た記憶があるが、よく覚えていないけれど確かそんな名前だった気がする、と言い直す夏衣を見ながら思った。
「白橋くん元気だった?」
「元気やったで、ナツさん会ってないん?」
「うん、しばらく会ってないんだ」
「そっか、なんかここまで送ってくれたら良かったんやけど、途中でここまでしか送れんって言われて帰っちゃってん。ホテルまで来てもらえば良かったな、あとちょっとやったし」
なぜかは分からないけれど、紅夜は自分が自棄に早口で喋っているのを自覚しながら、夏衣に向かって一所懸命、白橋がここにいないことをまるで弁明しているみたいだった。そう言って紅夜を坂の途中で下ろし、帰ってしまったのは紛れもなく白橋だったから、それは決して紅夜のせいではないし、そのことをきっと夏衣は分かっていたと思うけれど。どうして夏衣に向かってそんなことをしてしまうのか、紅夜にはよく分からなかった。けれど何となく、その時夏衣がエントランスに立って待っていたのは、自分ではなくて白橋だったのではないかと紅夜は少しだけ思ったりした。どうしてそう思ったのか、自分でも不思議だったけれど。
「そっか。残念だな、顔くらい見せてくれてもよかったのに」
「ほんまに」
それができないことを分かっていながら、夏衣がそう呟いていることを、紅夜は知ることはできなかった。だから夏衣がそこで何を言っても多分、自分はそこで夏衣を肯定する言葉を選んだに決まっていた。言葉にするのは難しかったけれど、まるで隠れて悪いことをしているのを、見つかったみたいな後ろめたさがなぜかその時紅夜にはあって、急いでスニーカーを脱ぐと鞄を持って談話室に急いだ。夏衣と二人で向かい合って話していると、余計なぼろが出てしまいそうで恐ろしかった。自分でも何に怯えているのか分からなかったけれど。
「お腹減ったなぁ、晩御飯なに?」
「さぁ、なんだろ」
とぼけた様子で夏衣が答えるのを、紅夜は安心しながら背中で聞いていた。あの家から連れ出してくれたのは紛れもなく夏衣だったし、ここの生活は紅夜にとっては信じられないくらい穏やかで優しくて、それに戸惑ってしまうくらいだった。それを全部自分に与えてくれているのが夏衣だというのは、誰に言われるまでもなく、紅夜は十分に理解しているつもりだった。
だけど、この優しい人が自分を本当に助けてくれる人なのか、それともそれ以外なのか、時々分からなくなるのも事実だった。
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