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それでも守りますから
広い大学の構内で、染を連れたまま女の子たちと関わらないようにすることは、はじめのうちは困難だったけれど、しばらくすると女の子たちは染が自分達に関心がないことが分かったのか、入学した時よりはずっと、その好奇心に晒されることは減ったように思う。それはもう、毎日一緒にいることを、ほとんど強制的に命じられているキヨの感覚の話だったけれど。それでも時々、もしかしたらタイミングが良ければ、今日こそは染が自分にだけは微笑んでくれるかもしれない、なんていう妄想でもしているのか、女の子たちは時々、染に声をかけてくるのを決して忘れなかった。大体は染も自分もそんなことは今日は起こらないだろと油断をしている時に限って、それは起こったから、後で「キヨが気を抜いているせい」と一禾に怒られてしまっても、どうやっても防ぎようのないことだと、キヨは半ば、いやほとんど諦めていた。
「うー・・・」
暗い非常階段の一番下の段に座って、染は俯いていた。キヨはそういう染の姿にはもうすっかり慣れてしまっていたけれど、毎回複雑な気持ちになることもあった。染だって本当は自分のそういう超異常体質を呪ったりしてもよかったかもしれないけれど、染はキヨが知っている範囲では、自分のそれについて「こうならなければいいのに」とは言わなかった。どうしてなのか分からない、一禾が染を連れてきた時、はじめて染に会った時から染はすでに「こう」だったから、キヨもそのことを疑問に思ったことはなかった。
(きっと花粉症みたいなもんなんだよな、アレルギーみたいなもん)
俯いて何やら染がぶつぶつ言っているのを聞きながら、キヨは自分もその非常階段の一番下の段に座って、染の頭をぐしぐしとやや乱暴に撫でた。
(あれ、花粉症って治らないんだっけ)
だったらもしかしたら染はずっと「こう」だったのかもしれないし、これからもずっと「こう」なのかもしれない。不思議なのは、それを染自身があまり困ったことと思っていなさそうに見える、ということのほうだろうか。まるで自分の側にいつまでも誰かが居てくれて、自分をその驚異から守ってくれることを知っているみたいだ。染にはそういうところがあって、まるで自分を守ってくれる存在がいることが普通でありそれが前提みたいに思っている。それはずっと一禾が側にいた弊害なのかもしれない。不意に顔を上げた染の顔は涙でびしゃびしゃに濡れていたけれど、それでも今日もひどく美しかった。
「キヨ、いたい」
「あ、ごめん」
そうやって自分が慰められている時に、平気で「ありがとう」じゃなくて、こうやって文句を言ったりするのも全部。考えながらキヨはそれを差し置いてもちょっと乱暴にしすぎた、と思って染の頭から手を離した。染は鼻を啜りながら、その深いブルーを臥せて、またそこに影を作っている。
「一禾に、言う、から」
「やめろよ、染。謝ったじゃん」
自分には「一禾に言う」が一番堪えることを知っていて、たぶん染はそれが面白いと思っていて、わざとそんな風に言ってみたりする。まだ目が濡れていて、鼻の頭も赤いけれど、キヨが心底嫌そうにそう呟くと、染は俯いたまま、濡れた声のままでくぐもった笑い声をたてた。
「さっさと顔拭いて、次の講義出なきゃだぞ」
「もう無理、家に帰りたい」
「先週もそう言って休んだろ、もう出席やばいから」
「・・・だって無理」
ティッシュを渡したのに、染は涙を着ている服で拭くから、手元のポケットティッシュは体積を減らさずにそこに放置されていた。その服だって、一禾が誰かから貰った上等な服なのだろうと、袖口に水分が吸い込まれるのを見ながらキヨは考えていた。一禾は自分で服なんか買わないし、そもそも染にはバイトをすることをほとんど強制するにも関わらず、自分は労働で対価を得てはいなかった。その日、染が着ていたのは黒のシャツだったが、一禾はきっとこんな暗い色の服は着ないから、きっとこれを一禾にプレゼントしたのは、一禾のことをよく知らない女に違いなかった。一禾には決まったパトロンが何人かいるらしいが、それでも時々全く知らない誰かに会いに行くこともあるらしい。一禾から直接そのことを聞いたことはなかったけれど、何となく一禾の話を断片的に聞いているだけで、キヨには大体想像はできていた。それでもこの幼馴染みは、そんなことまるで想像したことなんてないのだろうなと、また俯いてしまった染を見ながら、キヨは思った。
「一禾に言うからな」
「・・・真似すんなって」
キヨがそれが堪えるみたいに、染もそれが一番堪えることを知っていた。隣で染が肩を震わせて、それでもキヨはもう染が泣いていないのが分かっていた。
「なぁ染」
「なに?」
近くで見ると染の目は深いブルーで、奥が見えなくて不安になる。いつもより水分を含んだそれを、簡単にしばたかせて染は何でもないことのように返事をした。
「お前のそれってさ、いつからなの」
「それって、女の人が苦手なの?」
「うん、そう」
「えー・・・」
「生まれた時からそうなの?違うよな?」
何となく、キヨはその染の超異常体質が生まれついてのものではないことは分かっていた。何か理由があったわけではないけれど、生まれた染をはじめに抱き上げたのはきっと、染の母親だっただろうし、その時染は泣いていたかもしれないけれど、きっと理由は違うはずだった。
「うーん、小学生くらいまではたぶん、普通にしゃべれてたと思う・・・」
俯いて手の形を忙しなく変えながら、染はいつもよりずっと小さい声でぼそぼそと呟くように言った。
「正直、俺もよく覚えてない・・・気付いたらもう、こうだったし」
「へぇ、やっぱり花粉症」
「花粉症?」
染が頭の上にはてなを浮かべて、こちらを見てくるのにキヨは首を振って「こっちの話」と呟いた。何かきっかけでもあったのかと思ったけれど、染にその記憶がないのなら、徐々に発症したということなのか、そんな恐ろしいことがこの世にあるのだろうか。自分だったらある日朝起きて、染のような超異常体質になってしまっていたら、絶望して死んでしまうかもしれないと考えながら、キヨはそれだけは染本人には決して言えそうもないと思った。自分が染のその超異常体質に対してそんな風に思っているなんて。
「俺は覚えてないけど、もしかしたら一禾は知ってるかもしれない」
不安定に唇を笑った形に変えて、染は小さく呟いた。そんなことあるのだろうかと思ったけれど、染と一禾の関係の場合に限って言えば、おかしなことではなかったかもしれない。時々、一禾は染よりずっとずっと染のことに詳しかったし、そのことをきっと染自身もよく分かっていた。でもたぶん、キヨはそれを聞きながら、自分はそのことを一禾に確かめることはないだろうと、ぼんやり確信的に思っていた。別にそんなこと、知っていても知らなくてもどちらでも良かった。
染の側でやることなんて、はじめからひとつしかなかったから。
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