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てのひらで踊る愚かな Ⅰ

大学生の長い休みが続いていた。染は休みの時は一禾がうるさく言わないことが分かっているからなのか、昼間まで寝ていることが多くて、その日も談話室に降りてくるとすでに夏衣は昼食を食べ終わってしまったらしく、食後のコーヒーを飲んでいた。高校生のふたりは、とっくの昔に学校がはじまっているので、勿論その時間には談話室にはいない。ダイニングテーブルに座った夏衣が、染が談話室の扉を開けたのに合わせて視線を上げて、その夏衣はどこかに出かける予定でもあるのか、今日に限って自棄にかっちりした格好をしていたから、染はなんだか寝起き丸出しの自分の格好が、少しだけ恥ずかしいような気がした。 「おはよう、染ちゃん」 「・・・おはよ」 少しだけ下がった眼鏡を指で押し上げて、夏衣はにっこりと笑った。一禾の声がしなかったから、もしかしたら一禾はどこかに出かけているのかもしれない、と染が思った時だった。 「おはようじゃないよ、全く」 「げ、一禾」 キッチンからひょいと顔を覗かせた一禾が渋い顔をしているのと目があって、染は反射的にそう呟いた。休みになると引きこもりに拍車がかかる染のことを、一禾は口うるさく言ったりはしない。それはそれ以外の時間で学校に怯えながらもサボりながらも一応行っていることを評価してくれていて、きっと多目に見てくれているのだと思っていたけれど、度が過ぎれば勿論怒られないわけではなかった。 「ちょっと寝過ぎだから。もうお昼だよ、昨日何時に寝たの」 「・・・えー・・・分かんない、けど。学校ないしいいだろ、別に」 「そうだよ、一禾!染ちゃんは頑張ってるからそんなに怒らないの!」 夏衣がオーバーアクションで、染の視界に割り込んできて、一禾の顔が一層渋くなったのが、染の立っているところからでもよく分かった。夏衣はそうして時々助けてくれるようなムーブをするが、結局それが功を奏したことは一度もなかったことを染はよく知っていたから、夏衣がそうやって割り込んできたのを見ながら、余計に一禾の怒りを買ってしまうのではないかと思った。 「ナツ、うるさいから黙ってて」 「染ちゃん、そんなところに立ってないで座りな。ご飯食べようねぇ、お腹空いたでしょう」 「空いた・・・」 「顔洗ってきてから、汚いから」 眉間にシワを寄せたまま、一禾はそう言い放って、染は口の中でもごもごと返事をした。一応、一禾がそんなに怒り出す前に解放されたことに感謝したらいいのか、夏衣が余計なことを言うから、一禾をいっとう怒らせてしまったことを恨めばいいのか分からない。談話室を一旦出て、大浴場の側にある広めの洗面所に立つと、そこには寝癖でぼさぼさの髪をした自分の姿が映っている。染は勿論、自分ではそんなことを思ったことはないが、一禾以外の人間から、容姿のことを悪い意味で揶揄されたことはない。一禾は時々今日みたいに、染を普通の人間みたいに扱ってくれることがあって、夏衣はその度に「一禾、ひどい」と言ったりするけれど、染にとってはそれが心地よかったりもした。染だって、もう少し目立たない容姿に生まれていたら、もっと良かったのにと思わないことがないわけではなかった。夏衣に言うと「ないものねだり」と笑うけれど。 「大体、ナツが染ちゃんのことをそうやって甘やかすから、自分のことを自分でやらなくなるでしょ」 「えー、だってかわいいんだもん。しょうがなくなーい?」 顔を洗って髪をなんとか整えて、といっても勿論今日も明日も外に出ていく予定なんてなかったから、染にとってはどうでもいいことだったけれど、そうしてボサボサのままでいると、一禾にまた「見苦しい」と怒られるので、仕方なくそうするしかなかっただけのことである。別に自分一人ならどうでもよかったし、一禾がいない日はそのまま過ごしている時もあった。そこまで考えて、まだ気温が高いのにひやりとした。しばらく一禾はホテルにいたし、そろそろ出ていってしまってもおかしくないと昨日ふと思ったことを思い出したからだ。談話室に染が戻ると、ふたりはいつものようにどうでもいい話をしていて、その話の中心は自分なのに、染はしばらくぼんやりしながら扉の前でふたりの話を聞いていた。一禾は時々ホテルからいなくなってしまう、それに前触れもないし、なんの規則性もないけれど、何となくまたそれが近いような気がしたことを、誰にも言えるわけがない。 「染ちゃん、どうしたの。座りなよ」 「あ、うん」 「一禾ぁ、染ちゃんにごはん温めてあげて!」 「うるさいなぁ、コーヒー飲んでないで手伝ってよ」 一禾は依然イライラした様子で、キッチンから出てこないままで夏衣にそう言った。もっとも一禾が夏衣と喋っている時に、イライラしていないのを見ない方が珍しかったけれど。 「なぁ一禾」 夜は更けてきたけれど、さっき起きたばかりの染はまだ眠くなんてなかった。きっとこの調子で今日も眠るのは深夜か朝方になるだろう、それで明日も昼間で眠るに決まっていた。タオルを頭に乗せたまま、階段を上って自分の部屋に向かう途中だった一禾は振り返って、まだ階段の下にいる染のことを見やった。一禾の目はいつも通りで、染はなんだかほっとしていた。 「なに、染ちゃん」 「・・・いや、あの」 一禾がいつも通りだったから、染はそれ以上言い淀んでしまって、言葉を濁して口の中でまたもごもごと言った。携帯を片手に持っていた一禾は、それをするりとパジャマ変わりのジャージのポケットに入れて、とんとんと階段を下りてきた。一禾はいつも綺麗な格好をしていて、外に出かける予定がなくても部屋の中でぱりっとしたシャツを着ているくらいだったから、寝る時くらいしかこんな風にラフな格好はしない。 「今日は早く寝るんだよ、今日みたいに遅くまで寝てたら、学校始まったときに生活リズム戻すの大変だよ」 そんな風に母親みたいなことを言って、染の肩にかかっていたタオルでまだ湿ったままの頭をごしごし拭いた。染がそれをちょっと嫌がるような素振りをすると、一禾はにやっと悪戯が見つかった子どもみたいに笑って見せた。 「分かってる・・・」 「あ、そ。ならよかった」 言いながら一禾はにこっと笑って、タオルから手を離した。そしてまた半身になって、階段を上ろうとした時だった。 「なぁ、一禾」 別に用があったわけではなかったけれど、後ろからまた染がそんな風に声をかけたのに、もう一度振り返った時、一禾の携帯が震えて無意識に染は言葉を切っていた。一禾はそれをさっと取り出すと、あまり迷う素振りも見せずに、その画面を指ですっとなぞった。 「染ちゃんごめん、後で部屋行くね」 「・・・あ、うん」 一禾は短くそう言うと、その染の返事を聞いているのかいないのか分からないが、早足で階段を上っていって、3階まで到達してからもう一度携帯電話を操作して、それを耳に当ててそのまま廊下を曲がっていった。染はなんとなく嫌な予感がしたけれど、それを追いかけることもできずに、ただ階段の下から一禾が消えた廊下の方向を見ていることしかできなかった。

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