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てのひらで踊る愚かな Ⅱ
電話は玲子からだった。そう言えば久しぶりだなと、ただ単純に一禾は思った。逆を言えば、それしか思わなかった。前にかかってきた時は、玲子の父親の桜庭と会う約束があったから、断ったのだとぼんやりその記憶にアクセスしながら、一禾は携帯の応答ボタンを押した。
「もしもし、玲子さん?」
『一禾、久しぶりね』
玲子は前ぶれなく突然こうして電話をかけてくる。勿論、一禾がホテルや現実的で適応的な自分から逃げ出したくなる時に、こちらから連絡することもあるけれど、ほとんどは玲子から連絡がくることの方が多かった。何かあったのだろうか、何もなくても玲子は暇潰しに電話をかけてくることはあったし、そういう時にたとえ暇潰しだったとしても相手に選ばれているということは、自分には玲子にとって利用価値があるのだと分かるだけでも、一禾にとっては十分だった。他のパトロン達も、勿論それぞれが一禾の歪な自己愛を埋めてくれる存在ではあったが、玲子はその中でも育ちも教養も容姿もきっと一番秀でていた。だからまだ失えないと思っていたのか、それ以外に理由があるのか、一禾にも分からない。
「久しぶりだね、どうしたの」
『一禾はまだ夏休み?』
「あぁうん、そうだよ。9月いっぱいは」
言いながら一禾は頭の上に乗せていた湿ったタオルを、部屋の椅子の背もたれに引っかけた。本当は洗濯をしなければならないから、洗濯機に入れてこなければいけなかったけれど、時々こうやって部屋までタオルを持ってきてしまう。そういえば階段で会った染も、肩にタオルを引っかけていた。一禾の場合は、次の日には必ず一階に持って降りるようにしているが、染の部屋にはそうして使ったまま洗濯しないで放置されたタオルが山積みになっていて、この間も週末に紅夜が怒っているのを見たところだった。懲りないのは染らしいが、考えながら一禾はベッドに腰かけたまま、後ろ向きに倒れて、自分の部屋の天井を見上げた。そう言えば、染は階段で何かを言いたそうにしていたけれど、一体何の用だったのだろう。
『そう、明日は何か予定があるの?』
「ないよ、別に」
一禾はベッドに寝転んだまま、ふっと遮光カーテンがかかっている窓を見やった。そこから窓の外は見えない。何となく玲子の言いたいことは分かったが、それをわざと引き伸ばすようにして、一禾は染のことを考えていた。何の用だったのか聞かなかったけれど、今更それが気になってきてしまった。玲子は自分にとっては特別な人だったし、今失えないことも分かっていたけれど、一禾の中では優先しなければならない順番は決まっていて、それはいつも染が一番だったはずだった。
(さっき、後でねって言ったよな、俺・・・)
そんなことは染には到底分からないことで、伝わらないことだとは思ったけれど、何となく後回しにしてはいけなかった気がする。その時玲子の電話を切って、どんなに下らなくても染の話を聞くことだってできたはずなのに、無意識にそれを選択しなかった自分のことに一禾は自分で一番びっくりしていた。階段の下で染がどんな表情を浮かべていたのか、見ていなかったので一禾は思い出すことができなかった。今までそんなことはなかったはずだし、そんなことはしなかったはずだった。もしかしたら自分と染はお互いの境界が分からないくらい側にいたあの頃より、ずっと他人になりはじめているのかもしれない。それは一禾にとっては怖いことだった。他の誰かがそのほうがいいよと言うのが分かっていても。
『一禾?』
ふっと耳元で玲子の声がして、一禾ははっとした。手の中で熱く熱を持った携帯電話の存在を思い出すように、ぐっと握るとできるだけ明るい声を出したつもりだった。
「ごめん、ちょっと聞こえなかった。なに?玲子さん」
『明日、予定がなかったらうちに来ない?』
「いいけど、旦那さんいないの?」
『だからまだ結婚してないんだってば』
玲子が笑うのに合わせて、一禾もほとんど自動的にあははと声をあげた。玲子には婚約している相手がいて、いつのタイミングが、一禾は知らされていないので分からないが、どうやらそろそろ結婚するらしい。こんなにもまだ失えないと思っているし、必要だとも思っているし、利用価値があるとも思っているけれど、そうなったらきっとこの関係は終わりにしなければいけなかった。そうやっていつか誰かにもさよならを告げた気がするが、誰だったのか思い出すことができない。婚約している間なら会っていてもよくて、結婚してからは会ってはいけない理由なんて、あってないようなものだったけれど、もしこの関係に終わりが来るとしたら、そのタイミングしかないことも、何となく一禾は分かっていた。多分、玲子もそのことは弁えていたし、お互いに約束したわけではなかったけれど多分引き際があるとしたらそこしかなかった。
『一禾やめて、そういうこと言うの』
「ごめんごめん、なに?また海外出張?」
『ううん、今回は国内。しばらく帰ってこない予定だから、しばらくいてもいいよ』
「あー・・・」
丁度学校も休みだし、染のお尻を叩く必要もなかったから、一禾にとってはタイミングがよかったし、玲子がそう言うならしばらく何もしない生活に戻ろうかなと一禾は少しだけ考えた。毎朝早く起きて、皆の食事を作って、時々洗濯をして掃除をする生活を、一禾は好きだったし、夏衣や他の皆が言うほどは負担に感じたことはなかったけれど、その一禾でも時々は何もせずに一日ベッドでごろごろしているだけの日を過ごしたいと思う日もあった。誰かの世話を焼かなくても、誰かに世話を焼いてもらいたい日もあった。そんなにシリアスな意味ではなくて、もっとカジュアルでヘルシーな息抜きのつもりだったそれから帰ってきた時に、自棄に沈んだ顔をした紅夜に、「一禾さん迷惑かけてごめんな」と言われて、この純粋な少年は自分のやっていることなんて、きっと今の自分の年齢になってもきっと理解できないのだろうと思った。それが良いことなのか、悪いことなのか、一禾には分からなかったけれど、それ以来一禾は自分で少しだけ調整してパトロン達の家に行く頻度を減らしたつもりだった、これでも。
「えー、じゃあ行こうかな」
『待ってる、ひとりじゃやることがなくて暇なの』
自棄に明るい声で玲子が言う。前の誘いを断ったことも、きっと後ろめたさがないわけではなかった。誰かの家に逃げ込まなければいけないほど、今自分が切羽詰まっているわけではなかったけれど、いざそうなった時の避難場所になってもらうためには、相手の言うことも聞いておかなければいけなかった。利用価値があるのはお互いに、という意味でどちらか一方が手綱を握っているわけではなかった。そうだったらとっくに、こんな関係は破綻しているに決まっていた。
「俺は暇潰しなの、ひどいな、玲子さん
『そういう意味じゃないのよ』
別にそういう意味でも良かったし、どういう意味でも良かった。玲子の婚約者が一体どんなひとなのか、一禾は知らない。あまり相手のことを知りすぎるのは良くなかった。一禾だって玲子に教えてあげられるパーソナルな情報は限られていたから、自分が明らかにできない分、必要以上に聞くこともできなかった。気にならなかったわけではないけれど、そのことについて深堀りしたことはなかった。それでも婚約者が出張に行っている間に、若くて美しい男を部屋に入れて、それで息抜きをしているつもりなのだとしたら、玲子も相当婚約者との生活を我慢して成り立たせているのかもしれない。相手には同情するけれど、一禾が考えることではなかった、そのことは。
『じゃあ明日ね、待ってるから』
「うん、分かった、おやすみ」
『おやすみ』
玲子の声が耳元で聞こえて、それから通話の切れる音がした。
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