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てのひらで踊る愚かな Ⅲ
「あれ、一禾どっか行くの」
翌日、一禾は約束通り玲子の家に行こうとして、玲子がいつかプレゼントしてくれたシャツを来て、エントランスで革靴を履いていた。ホテルを出ていく時に、未成年のふたりとは違うから、何も報告する義務がないと思っていたから、たぶん後ろめたい気持ちが全然ないわけでもなくて、何も言わなかったけれど、目ざとい夏衣は何かを察知したみたいに呼び止めてきた。
「いや、まぁ」
「買い物?だったら俺買ってきてほしいものあるんだけど、頼んでもいい?」
「なに?クッキーだったら買わないよ、食べ過ぎなんだよ、ナツは」
「クッキーじゃないって。コーヒー、なくなりそうだから。いつものインスタントのやつ。いいでしょ?」
そうやって一禾の買い物に夏衣が便乗してくることは、多くはなかったけれど少なくもなかった。夏衣は夏衣で、自分のいるものや皆で使っている消耗品なんかを自分達が学校に行っている間に買ってくることはあったし、一禾のほうが足りない食材を夏衣に頼んだりすることもあった。高校生のふたりには何となく一禾は頼むことができなかったし、勿論染は買い物自体行けないことのほうが多かったので、ホテルの中で買い物に行けるのは、必然的に夏衣か一禾のどちらかに限られていた。だからその時、何ともなしに夏衣がそう頼んできたことを、一禾はどんな言い訳をして断ろうかと考えていた。
「あと牛乳もなくなりそうだから買ってきてほしいなぁ、あ、もしかしたら買い物リストに入ってる?」
「あー・・・ごめん」
急に一禾が謝ったので、夏衣が頭の上にクエスチョンマークを浮かべたのが見えるようだった。
「俺、今日は帰らないかも。急ぎなんだったら自分で買いに行って」
「・・・なるほど」
なにがなるほどなのか分からない。それでも自分の言いたいことは、癪だが夏衣には伝わったのだろうと思った。それをいつもの延長みたいにあしらっても、染はまだ起きていなかったから、そんなに心が痛むこともなかった。そんなことで痛めているのなら、行かなければいいということは勿論分かっているけれど、一禾にはそれを選択することもできなかった。一禾が少しだけ眉間にシワを寄せて、不服そうな顔をして見せると、夏衣は肩をすくめるようにしてそうしてわざとらしく眉尻を下げて見せた。
「まぁ、ゆっくりしてきなよ」
しばらく玲子の家にいても良かったし、二三日で帰ることもできた。自由だと思った、自由でいられると思った。そんなにいつも自由でできているはずなのに、身動きがとれなかったり、息苦しくなるのはどうしてなのだろう。一禾には分からない。ホテルでの生活は自由であればあるほど、自分の意思で全てのことが決められるから不自由だと思えることもないわけではなかった。
「一禾、何か作って」
玲子の家にいる時は、一禾は何もしないけれど、彼女がしてほしいと言うことは全て、できることは全てしてあげるつもりでいた。それが多分、形のいい若い男の望まれていることだと思っていたから。玲子が本当はどう思っていたか知らない。ただ一禾の前では彼女はいつも機嫌が良かったし、他のパトロンや女友達みたいに突然わけのわからないことで怒り出すこともなかったから平和だった。女の子は温かくて柔らかくていつだっていい匂いがしたけれど、感情の起伏が激しくて、それだけは一禾がいくら気を付けていても、時々地雷みたいに踏み抜いてしまって取り返しのつかないことになってしまったりもした。
「いいよ、何がいいの?」
体重に合わせて簡単に沈むソファーに寝転がって雑誌を読んでいた一禾は、側までやってきた玲子を見上げて雑誌を閉じた。別段この家ですることはなかったから、一禾はそうやって玲子の家に行った時には何をするわけでもなく、怠惰に時間を過ごしていることも多かった。ただそれはホテルの中ではできないことだったから、一禾にとっては貴重な時間に違いなかった。
「なんでも」
「なんでもが一番困るんだよ、冷蔵庫見ていい?」
「いいよ、何も入ってないけど」
勿論、玲子は自分の手で料理をするような人ではなかったから、いつも冷蔵庫の中は空っぽだった。この家に帰ってくる婚約者と毎日膝を突き合わせて、一体何を食べているのだろうと、一禾はそれを見る度に考えてしまう。まさかコンビニ弁当を食べているわけではなだろうし、自分の手を使わなくても、この人は、この人達は、自分の食べ物くらい用意する術を持っているのだと思うと、一禾はひとりで遣りきれない気持ちになる。きっと玲子のことを理解できる日は来ないのだろうと思うことも多かった。
「本当に何もないねぇ、相変わらず」
「だって使わないんだもん」
「パスタあったっけ、前に俺が買って置いておいたやつ」
「あるかも。一禾しか使わないから」
言いながら玲子はキッチンの上の棚を開けてそこを探し始めた。玲子の婚約者はそのパスタを見つけて、玲子を疑ったりしないのだろうか。そんなものこの家には必要ないはずだったし、玲子が買う姿を一禾でさえ想像できないのに。一禾は腕を伸ばす彼女の横顔を見ながら考えた。婚約者がどんな人なのか知らないけれど、玲子がうんざりして若い男を家に招いてしまうほど、そんなことを考えもしないほどつまらない男なのかもしれない。そこを深く掘ってもどうしようもないことは分かっている。これは好奇心であり、他のなんでもないはずだった。他のなんでもあってはいけないと思っていた。
「あった、これでしょ」
「じゃあパスタだな、なんか簡単なやつしか作れないけどそれでもいい?」
「うん、一禾が作るの、何でも好きだから」
そう言って肩をすぼめて玲子はふふふと笑った。玲子は、玲子だけじゃなくて他のパトロンも皆、一禾の回りにいる自分にほんのりと好意を寄せる女の子たちは皆、そうして分かりやすく、歪な自分の形を分からなくさせるみたいに、満たしてくれるからその度に一禾はまだ自分は大丈夫だと思えたし、その度にどんなに後ろめたい気持ちになってもこの手を離せないと思った。
「いつもいいもの食べてるくせに。こんな乾燥パスタ俺としか食べないでしょ」
「そんなことないけど。それに、何を食べるかより、誰と食べるかは重要だと思わない?」
一禾が鍋に、使わないはずなのに玲子の家には一応全ての調理器具が揃っていて、一禾はそれを見る度に、ここに来て料理をしているのは自分だけではどうやらなさそうだということに気付いていないふりをしなければならなかった、水を入れてそれを火にかけるのを近くで見ながら、玲子は小首を傾げてそう言った。確かにそうだなと思いながら、一禾はすぐにはそれに返事をすることはできなかった。たまには玲子に共感することもあるのかと思いながら、一禾は火の加減を調節した。
「一禾の作ってくれるもの、好きなの。全部おいしいから」
「ありがと、愛情がこもってるからね」
「あはは。また変なこと言って」
茶化して笑ったけれど、それは純粋に嬉しいと思った。
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