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てのひらで踊る愚かな Ⅳ

そうして一禾が乾燥パスタをまさに鍋に入れた時だった。がちゃりと玄関で音がしたのが、玲子にも一禾にもはっきり聞こえた。ぱっと視線を上げると、玲子はカウンターにもたれた格好のまま、一禾の方は見ていなかった。既に玄関の方向に視線はあり、一禾は無表情の玲子の横顔を見るだけになる。 「玲子さん」 「見てくる」 短く玲子はそう言うと、自棄に静かに冷静に、すっとカウンターから離れて部屋を出ていった。部屋の扉の奥で玲子のスリッパがパタパタとフローリングを叩く音が聞こえた。一禾はこんな時どうしたらいいのか分からなくて、ただ沸騰しているお湯の中を泳いでいる乾燥パスタを眺めていた。こういう時がもしかしたら来るかもしれないのは分かっていたけれど、どうシミュレーションをしても上手くいきそうにはなかった。どう考えても、何もかもおかしかった。ややあってから、部屋の向こうから玲子が誰かと喋る声が聞こえてきた。 「どうしたの、急に帰ってくるなんて。出張だからしばらく帰らないって言ってたじゃない」 「さぁ、俺もそのつもりだったんだけど、取引先の都合でさ、延期にしてほしいって言われて。新幹線に乗る前で良かったよ。引き返してきた」 「そう。でもびっくりした、連絡してくれれば良かったのに」 どう聞いても玲子と喋っているのは男の声だった。がちゃりと部屋の扉が開いて、そこから玲子の顔が見えた。一禾は慌てて鍋の火を止めた。それくらいしか、この場で一禾にできそうなことはなかった。そうして無表情の玲子と目が合う。隠れた方がいいのか、それとも他に方法があるのか、一禾には分からない。玲子の後ろから背が高い男が部屋に入ってくる。勿論、知らない男だった。それが玲子の婚約者なのだろう。どんな人物なのか知りたいとのんびり考えていたことが、こんな形でふたりの間に明らかになるなんて思っていなかった。一禾はそれ以上何もできず、それが最良の選択ではないことは分かっていたけれど、ただぼんやり男の顔を見ていた。 「あれ、お客さんだった?」 男と目があって、そう呟く声がするのに、一禾はどうしたらいいのか分からず、ただ黙って立っているわけにもいかなかったので微妙に会釈をした。玲子の婚約者は、背が高くて思ったよりずっと、多分玲子が言うよりずっと清潔そうな見た目のいい人に見えた。 「あ、そうなの。友達の弟なの、一禾って言って」 「・・・こんにちは」 玲子がまるで今気付いたみたいな不自然さで自分のことをそう、男に紹介するのを聞きながら、一禾はそれを邪魔しないようにいつもより年齢相応に見えるように努力して、ただ口先だけでそう挨拶をした。男は一禾が部屋にいるのを見て、流石に驚いたようだったが、玲子のそのとってつけたような説明を信じているのかいないのか分からなかったが、いきなり激昂することもなく、おそらくまだ冷静だった、双方とも。 (つまんないつまんないって言うからどんな人かと思ったけど) (普通にイケメンじゃん、いい人そうだし) そこにいるべきではないと思っていたけれど、出ていくこともできずに、一禾は黙って閉じ込められたみたいにキッチンにぼんやり立っていることを余儀なくされた。玲子から聞いていた婚約者の情報は、決して多くはなかったけれど、それはいつも大体あんまりよくない情報だったから、一禾もそれを信じるしかなかったけれど、その時はじめて真正面から見たその人は、玲子が言っているそれとは全然重ならなくて、まるでずっと別の人のことを聞かされていたみたいで、それにどうして自分がそんな気分になるか分からなかったけれど、一禾はそれに少しだけがっかりしたような気がした。 「料理が得意だから来てもらってたの」 「そうなんだ、ごめん、急に帰ってきて。連絡すれば良かったね」 「いいの、びっくりしただけ」 言いながら玲子はいつもみたいににっこり笑った。自分の留守中に他の男を連れ込んでいる婚約者のことを怒るわけでも、咎めるわけでもなくそうやって謝ることができるなんて、玲子に興味がないのだろうかと思わざるを得なかった。それを見ながら、まさか本当にそれを信じている訳がないと一禾は半分暗くなったキッチンで考えていたけれど、男の顔からはそんな後ろ暗い考えは一ミリも読み取れないのが事実だった。 (いい人っていうか、興味がないだけ?玲子さんに?) (その割りには物腰柔らかいけど) そんなことを考えても意味がないことは分かっていたけれど、どうしても違和感の正体について考えざるをえなかった。友達の弟だなんて、そんな不自然な嘘を信じて笑ってくれるような人に、一禾は会ったことがないし、全く理解できなかった。 「一禾、こっち来て」 玲子がリビングからそう声をかけてきて、さっきふたりでいた時みたいに自然で、一禾はひとりで考えていたことを手放して返事をした。 「あ、うん」 「あのね、この人私の婚約者の直人さん」 まるで初対面みたいに、いや文字通り初対面だったのだけれど、そう言われて一禾はまた真正面から直人の顔を見ることしかできなくなった。いつも玲子の側にいる時は、少し背伸びをした綺麗な服を着て、隣に立っても恥ずかしくないように、何も持たない大学生ではないような振りをする必要があったので、等身大の自分はこんな時にどんな顔をして、どんなことを言えばいいのか、一禾はすぐには分からなかった。直人は一禾と目線を合わせるとまるで子どもを見るように優しい顔をしてにっこり笑った。 「玲子のわがままに付き合ってくれてありがとう」 「わがままなんてやめてよ。ちょっとご飯作ってもらってただけじゃない」 「あはは、それがわがままって言うんじゃないか」 知らない人みたいに玲子が笑うのを聞きながら、一禾は唇の端を不器用に引き上げた。別に玲子に対して恋愛感情があったわけではないけれど、それとは全然関係ないところで、なんだかここにいたくはなかったし、早くここから逃げ出したい気持ちだった。直人が自分と玲子の関係に全く気付いていなくても、何かを感じ取ってただ黙っているだけだったとしても。 「玲子さん、俺大学行かなきゃいけないからもう帰るね」 「え、あ、そんな時間なの?」 「そうなの?送っていこうか」 今頃ぬるま湯になっているお湯の中で泳いでいるパスタのことを考えないわけではなかったけれど、一禾はこの部屋からはやく出ていきたくて、出ていかなければいけなくて、それだけをただ考えていた。玲子もきっと同じ気持ちだったはずだった。白々しく声をあげた玲子の隣で、直人が今気付いたみたいに言い出すのを背中で聞きながら、一禾は無駄に沈む素材でできたソファーの近くに置きっぱなしにしていた自分の鞄を肩にかけて、くるりと直人に向き直った。まさかここまで玲子が買ってくれた高級外車で来たことを、本気でそんな暢気なことを言っているのか、一禾にはまだ分からなかったけれど、それでもこの人に教えることはできなかった。 「大丈夫です、すぐそこなんで」 「一禾、ごめんね、またゆっくりね。来てくれてありがとう」 「すみません、お邪魔しました」 このまま不自然に帰ることができると思っていなかったけれど、玲子が努めて冷静にそう言って、扉を閉めるのを見ながら、一禾はこんな時にどう思うのが正解なのだろうと考えていた。なんて思っても自分のその時の気持ちとはフィットしないような気がしたから。

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