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てのひらで踊る愚かな Ⅴ

「おはよう、染ちゃん」 昨日、確かに一禾にはやく寝るように言われたけれど、言われたからはやく寝られるようになるわけではないし、はやく起きられるわけではなかった。結局次の日に染が起きてきたのも、昨日と変わらない昼過ぎで、目が覚めたときにやばいと思って急いで降りてきたけれど、談話室には夏衣が分厚い文庫本の小説を持って座っているだけで拍子抜けした。どうやら一禾はいないらしいと分かって、ほっとしながらいないのならばもう少し寝ておけば良かったとぼさぼさの頭のまま思った。 「ナツだけ?一禾は?」 「ほんと君たちはお互いのことばっかしか言わないよねぇ」 「なんだよ、一禾は?」 談話室には夏衣しかいなかったから、染の定位置のソファーは空いていた。そこに倒れ込むようにダイブした後、どうせ買い物に行っているのだろうと思ったけれど、染は一応夏衣にそのことを聞くだけ聞いておこうと思った。すると呆れたように夏衣は眼鏡の縁を触って溜め息を吐いている。そういうことを夏衣に散々言われるようになってから、染はいつもどこでも一禾のことを探している自分のことに気付いたと言ったら、また呆れたように夏衣は溜め息を吐くに決まっていた。だってここに来る前は、探さなくても一禾はいつも染の近くにいてくれた。探さなければいけなくなったのは、ホテルに来てからだった。 (あれ?ホテルに来る前、俺ってどうしてたんだっけ?) そう言えばあんまりよく覚えていない。いつか卒業アルバムを見ようとしたことがあったけれど、その後どうしたのか自分でも覚えていなかった。最近、キヨにも同じようなことを聞かれた気がするけれど、何と答えたのか覚えていなかった。 (まぁ、いいか) 染は自分のことを考えるのが苦手だったので、その事が今すぐに必要ではなかったら、気持ち悪いと思わなくはないけれど、それは自分にはきっとどうでもいいことだった。 「一禾ならいませーん」 「買い物?いつ帰ってくる?」 「ざんねーん、今日は帰ってこないって。しばらく帰ってこないかも」 夏衣がふざけた調子でそう言って、染はソファーに寝転がっていた体をがばっと起こした。まだ頭はぼさぼさのままである。そもそも一禾が注意をしているから直しているのであって、染は自分の容姿に無頓着だったから、そんなことどうでも良かったし、女の子たちにそれで囲まれないで済むのだったら、自分の姿なんてどうでもよかったけれど、なぜか一禾はそれを染に許してはくれなかった。 「なんで」 「いつものあれだよ、病気」 「・・・昨日そんなこと言ってなかったのに」 言いながら染は、昨日一禾を階段の途中で呼び止めた時に、一禾の携帯に誰かから電話がかかってきていたことを思い出した。あの電話で呼び出されて行ってしまったのかと合点がいったら、それ以上夏衣に何も言えなかった。勿論、夏衣に文句を言ったところで仕方がないことだとは分かっていたけれど。その後、約束通りに部屋に来てくれた時は、まるで明日からしばらくいなくなるなんて、そんなこと微塵も感じさせない、いつもの普通の一禾に見えたけれどその時にはもう今日のことは決まっていたのかもしれない。 「何も言わずに行っちゃうのもいつものことだけどね。今朝もさぁ、俺がたまたま見つけないとたぶん黙って出ていくつもりだっただろうし」 「・・・うん、まぁ」 「最近何かやなことでもあったのかなぁ、そんなストレスたまってるようには見えなかったけど」 そう言って夏衣がこちらを見てきたのは分かったけれど、染だって一禾が出ていく周期のことは分からないし、それに多分今回のことは女の方に呼び出されて出ていったから、一禾側の要因はそれほど大きくはないはずだった。そんなこと推測の域を出なかったけれど、この間テスト期間に出ていってしまった時より、一禾はずっと穏やかだったと思う。最近に限って言えば。 「染ちゃんさぁ、一禾に言ってみなよ、ダメ元でいいからさぁ」 「・・・なんて」 「一禾がいないと困るから女のところになんか行かないでって、そしたら俺、結構普通に行かないでいてくれるんじゃないかと思うんだけど。一禾は染ちゃんのお願い断らないでしょ」 「そんなことねぇよ、バイトやだって言っても行かせるじゃん」 それにそんなこと一禾相手に言えそうにもなかった。そんなことを言う権利は、自分にはないような気がした。大学生になって一禾は変わったと思う、高校生の時は今ほど奔放に女の子と一緒にいなかったような気がする、とそこまで考えて頭の奥がずきりと痛んだ。そうだったような気もするし、そうじゃなかったような気もする。でも外車を乗り回すようになったのも、ブランド品で武装するようになったのも、全部最近の記憶だったような気がする。一禾がそうやって何を手に入れようとしているのか、染にはよく分からなかった。だけどそうやって変わってしまう一禾のことを、自分は側で見ていることしかできないし、それに口を出すことなんてできないと思った。そうでなくても一禾はもっと別の何かに縛られているような気がしたから。 「バイトとこれは別問題な気がするんだけどなぁ」 「・・・」 「そんなに世界の終わりみたいな顔するくらいなら、一度くらい言ってみたらいいのに」 「そんな顔、してないだろ」 言い返すと夏衣は何も言わないでただにやにや笑った。染はソファーから立ち上がると、せめて顔だけでも洗っておこうと思って洗面所に向かった。 (そんなこと言ったって無駄だし) (卒業したらどうするんだろうな、俺) 曇った鏡を見ながら染は思ったけれど、それを口に出して一禾に聞くこともできなかった、勿論返事が怖くて。卒業までは後1年半あったけれど、後1年半なんて本当にすぐに過ぎ去ってしまうことは分かっていた。一番側にいても、一禾のことを分からないこともあったし、一番側にいるから、一禾に聞けないこともあった。染から見たら夏衣の方がずっと一禾と普通に話せている気がして、羨ましいと思うことだってあるのだと、夏衣に言ったらきっとまた馬鹿にされるに決まっていた。 「染ちゃん、昼御飯どうする?カップ麺でいい?」 顔だけを洗って、結局髪の毛はぼさぼさのままの染が談話室に戻ると、夏衣はダイニングテーブルにはいなくなっていて、代わりにいつもはあまり立ち入らないキッチンに入って、カップ麺のストックが置いてある棚の扉を開けていた。染はどうでもよかったし、それ以外の選択肢が逆にあるなら聞きたかったけれど、何だかもう全部面倒くさくなって、ダイニングテーブルに座った。 「何でもいい、別に」 「そんな京義みたいなこと言わないでよ」 「じゃあ辛いやつ、辛いやつなんか、食べたい」 ダイニングテーブルに頬をくっつけると、そこが冷えていて気持ちが良かった。目を閉じるとそのまままた眠ってしまいそうになるほど、気持ちが良かった。夏衣が返事をしているのが、すぐそばのキッチンにいるはずなのに、自棄に遠くから聞こえる。

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