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てのひらで踊る愚かな Ⅵ
玲子もきっと同じ気持ちだったから、自分を側に置いてくれていたのだと思っていたけれど、どうやらそうではないかもしれないと気付いた時にはひとりで玄関の外に閉め出された後だった。それから玲子は婚約者に向かって白々しい嘘を吐くのかもしれないし、もしかしたら婚約者はそのことに気づいていて、玲子は責められるのかもしれない。でもどちらでもよかった。どちらでもきっと自分は蚊帳の外なのだと思った。そんなことにも参加させてもらえないくらい、部外者なのだと分かったら、それはそれで虚しい気持ちだった。一禾はいつまでもマンションの扉の前に立っているわけにもいかなかったので、エレベーターに乗って地下の駐車場に降りてきてから、乗ってきた玲子が自分のために買ってくれた車に乗り込んだ。
(ホテル、戻ろうかな)
そこしか居場所なんてはじめからなかったし、きっと作るべきじゃなかった。
確かにそう思っていたのに、それから30分ほど後に一禾は帝都大学の前に立っていた。自分でもどうしてここに来てしまったのか分からなかったけれど、何となくホテルには帰りたくないし、帰れないと思っていた。出てくる時に夏衣に今日は帰らないと言ったことが理由だったかもしれないし、他にも理由はあったかもしれない。大学はセキュリティーが緩くて、他の大学の生徒である一禾でも、すんなり敷地内に入ることを許された。夏休みで講義がないはずなのに、大学の中はまばらに生徒の姿があって、他の大学なんて行く理由がないから、今まで特に出向いたことはなかったけれど、自分のそれとそんなに雰囲気は変わらず、一禾はそこに溶け込んでいるような、まるでその場所のことをよく知っているような不思議な気分だった。
「上月くん」
そこに自分を知っている人はいないはずなのに、名前を呼ばれて一禾はほとんど無意識に振り返った。そこには何冊か本を持った桜庭が立っていた。
「何をやってるんだ、こんなところで」
「・・・さぁ」
そんなことは自分の方が聞きたかった。一禾は桜庭の視線から逃れるみたいに視線を脇にやったけれど、桜庭が大股で近づいてくるのは分かった。本当のことを言いたいような、言いたくないような、どちらの気持ちもあったけれど、どちらの気持ちも自分のそれではないような気がした。
「ひどい顔色じゃないか、また何か変なことに巻き込まれてるんじゃないだろうな」
桜庭の声がいつもよりも響いて、怒っているような気がして、一禾は体の力が抜けるような気がした。そういえば桜庭とはじめて会った時、一禾は准教授にセクハラまがいのことをされていた途中だった。その時も今と同じような顔をしていたのかもしれないし、違ったかもしれない。周囲を通りすぎていく生徒たちは、一禾と桜庭の様子がどうもおかしいので、チラチラと視線を向けてくる。
「先生に会いに来たって言ったら?」
そう言って首を傾げたら、桜庭は慌てたように一禾の腕を掴んだ。
「ちょっと来なさい」
そのまま桜庭の研究室まで連れて来られた一禾は、桜庭がその扉を閉めたところでほっとしたように溜め息を吐いているのを見ない振りをしていた。そうして壁一面の本棚に、統一感のない本が詰め込まれているのをぼんやり見ながら、どこの研究室も景色は同じようなもので、代わり映えがしないなぁと全然関係のないことを考えていた。なんだかそういう風にしているほうがいいような気がしたから。
「上月くん」
さっきと同じようにもう一度一禾の名前を桜庭が呼んで、一禾はゆっくり桜庭のほうを振り返った。そこで桜庭が思ったよりも真剣な顔をしていたので、一禾は自分はそんなに酷い顔をしていたのだろうかと思った。
「何かあったのか、また」
「・・・ーーー」
そうして桜庭が呟くように言うのに、この人が自分のことを心配しているだけなのだと、他意なんてないのだと気付くのに随分と時間がかかった。それは桜庭とはじめて会ったのがあんな現場だったからなのかもしれないし、他にも理由はあったのかもしれない。一禾は誰かのことを、ほとんどにおいてそれは染のことだったけれど、心配することはあっても誰かに心配されるのは慣れていなかったから、それにどう対応したらいいのか分からなかった。ぱちりと瞬きをする一禾のことを、桜庭は心配そうな目でただ見ている。
「玲子さん家に行ったんです」
「・・・え?」
「婚約者が出張していていないからって、そうしたら急に帰ってきて」
本当はこんなことを、誰にも、桜庭が玲子の父親だとしてもそうじゃなくても、言うべきではないことは分かっていたけれど、言葉が唇から漏れたら、それを止めることは一禾にはもうできなかった。言うべきじゃないと思いながらきっと、誰かに聞いて欲しかったのだろうと思う。
「玲子さん、婚約者のこと冴えない男だってずっと言ってたんですよ、俺に」
「どんな男か見てやりたかった、でも、全然、そんな人じゃなくて、優しくて、いい人そうに見えました」
本当に玲子の言うように、男が冴えない人だったらなんだというのか、だからなんだと言うわけではないけれど、玲子が自分に嘘をついていたことがショックだったのか、他にも理由はあるのか、一禾にはなぜ自分がこんな気持ちにならなくてはいけないのか、よく分からなかった。ただ自分と同じだと思っていた玲子が、婚約者が帰ってきた瞬間に、一禾はその瞬間にあそこでひとり、何も知らない他人になったし、きっとはじめからずっとそうだったのだろうことを自覚させられただけだった。着飾ってもそれらしく振る舞っても、玲子の側に立つべき人間ではないことを、そうして直接的に分からせられたみたいなものだった。
「そうか」
「・・・大丈夫です、うまく誤魔化せて、喧嘩とかにはきっとなってないですから」
「そんなことは、心配してないけどな」
桜庭が小さく呟いて、だとしたらそれをまず心配すべきだと一禾は自分のことを棚に上げて思った。玲子の父親なのだとしたら、それ以外に心配することなんてきっとここではないはずだった。視線を上げたら桜庭はまだ心配そうな目で一禾のことを見ていて、それに一禾はどんな顔をすればいいのか分からないでまた視線を反らしていた。無意識にここに来たことの意味を、本当は分かっているような気もするし、それを自覚してはいけないような気もした。自覚しては負けな気もした。
「君がひどい顔色をしていたから、また変なことに巻き込まれてるんじゃないかと思ったよ」
「・・・」
「そうじゃないのなら、良かった」
「・・・ーーー」
良くなんかなかった。流石の一禾でもそれくらいは分かったけれど、そう言って本当みたいに息を吐く桜庭にそれを確かめることもできなかった。ここに来れば、自分が被害者のふりをしても桜庭が怒ったりしないのは分かっていたし、少し目線を下げれば頭を撫でて慰めてもらえることは分かっていた。分かっていたけれど、本当にそれをじっこうしてしまう自分に嫌気が差したし、吐き気がしたのも事実だった。
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