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てのひらで踊る愚かな Ⅶ

「君が無事なら良かった」 そんなわけがなかった。 「何かあったんじゃないかと思って、心配したよ」 そんなことを言われるために来たわけじゃない、と思いたかったけれど、本当は欲しかったのはその言葉だったかもしれない。一禾をそうやって慰めてくれる人は、もう桜庭くらいしかいなかったから。不安な時に背中を丸めて誰かの近くで、小さくなってその頭を撫でられることを、一禾だって他の誰か相手に期待をしても良いはずだった。期待をしても、許されても良いはずだった。 「すみません」 「・・・どうして謝るんだ」 「だって俺が悪いんです、結局。元々、間男は俺の方なのに」 視線を上げても桜庭は相変わらず、一禾に向かって心配そうな目を向けているだけだった。そんな風に思ってもらえる資格なんてないことは、一禾が一番よく分かっていた。分かっていなければいけなかった。被害者面して黙っているわけにはいかなかった。 「こんなこと、玲子さんに対して思うべきじゃないし、思う資格なんて俺にはないんです。はじめから」 「もう、玲子さんには会いません」 きっとそれが良かった。桜庭にそんなことを言っても意味がないことは分かっていたけれど、桜庭にそう言っておけば、自分が同じことをしないのではないかという期待もないわけではなかった。玲子を失うわけにはいかなかったけれど、最後はあまりにも呆気なくて、それが玲子と自分の関係らしかった。何も確かなものなんてなかったから、なくなる時も呆気なくて意味なんてあってないようなものだった。 「だから、安心してください」 一禾はそうやって笑ったつもりだったけれど、桜庭の渋い表情は変わらなくて、一禾はそれ以上何を言ったら良いのか分からずに黙っていた。 「前も言ったと思うが、玲子もあれで君よりも大人だから、自分のことはちゃんとするさ。そういうことは心配していないんだ」 確かに前も同じようなことを桜庭は言っていたような気がする、と一禾は思ったけれど口には出さなかった。 「僕が心配しているのは君のことなんだけどな、伝わらないもんだな。いつも」 「自分の価値を下げるような危ないことはしてくれるな、それだけでも分かっていてくれ。君は自分のことを大事にするのが苦手だから、上月くん」 そうして桜庭がぽんぽんと一禾の頭を撫でるように触るのに、一禾は一瞬涙が出そうだと思ったけれど、気持ちに反して目元はずっと乾いていた。江崎にも同じことを言われたことがある、勿論一禾だって自分のことを無価値だなんて思っていないし、大事にできるならきっとやっていただろうと思う。ただ自分にはそれより優先するものがあっただけだ。それでもこんなに周りの大人から言われるということは、それなりに異常に見えるのだろうなという自覚もないわけではなかった。 「・・・すみません、変なこと言って、もう帰ります」 ここにいたらおかしなことになりそうだと思った、もうすでにおかしなことになっていたけれど、きっと多分それ以上に。一禾は研究室の扉に手をかけて、それから一度部屋の中にいる桜庭を振り返った。桜庭はそこで、変わらず一禾を迷子の子どもでも見るような目で見ている。 「上月くん」 「・・・なにか」 「もう10年も前の話だが、妻が亡くなって今はひとりだ」 「・・・?」 その時、一禾には桜庭が一体自分に何を言いたいのか分からなかった。ぱちりと瞬きだけをすると、桜庭にもそれが分かったみたいに桜庭はくすりと笑った。 「僕にはまた会ってくれるかい?」 「ただいま」 談話室の扉を開けると、そこには珍しく夏衣はいなくて、ただ染だけがソファーに寝転がっていた。そしてまるで一禾の声にだけ反応するロボットみたいにぴょんと起き上がると、その深いブルーの目をぱちぱちとしばたかせながら近づいてきた。 「あれ、一禾?」 「染ちゃん、その頭なに?ちゃんと櫛でとかして、家にいるだけでも最低限きれいにして」 言いながら一禾が手櫛で染の髪の毛をささっと直すのに、染はその場でただ棒立ちになってされるがままになっていた。いつものことだった。 「一禾、お前、今日帰ってこないんじゃ」 「え?そんなことないよ、ナツが言ってたの?」 「なんだよー、嘘かよー、ナツのばか」 言いながら染が唇を尖らせるのを見ながら、一禾は小さく笑った。それで良かった、一禾の日常はずっとこれだったから、それ以上のことなんて多分必要なかった。誰にも理解されていなくても良かったし、誰にも分かってもらえなくても構わなかった。それで自分のことをないがしろにしてしまっていても、そんなこと関係ないと思えるくらい、一禾にはそれが大事だったから、結局のところ、それよりも自分のことを優先することなんてできないのだ、分かっていた。分かっているつもりだった。 「ごめん、ちょっと出掛けてただけだよ」 「なんだよ、ナツが変なこと言うから」 「お昼なに食べたの?」 「カップラーメン、辛いやつ。ナツ食べられなくて半分残してたよ」 そんなどうでもいいことを目をキラキラさせながら話して、一禾の後をついてくる、染のことを一禾は絶対に手放せないし、自分のプライオリティを変更することなんてできなかった、きっと。そうして時々それに疲れた時に丸まっても、慰めてくれる相手さえいればいいし、場所さえあればよかった。それは別に誰でも良かったし、玲子はその場所には最適だったけれど、できれば失いたくないと思っていたけれど、でも玲子だけが一禾にとってその場所ではなかった。だから別に相手は玲子でなくても大丈夫だった、きっと誰でも。 (だからって代わりにその父親にするわけにはいかないと思うけど) それでもあの人の側にいると、自分は年相応の大学生に戻れるし、背伸びをして格好をつけていなくても平気だったし、それは少しだけ心地よいと思った。自分にはそういう場所も必要なのかもしれないと、ただぼんやり思ったのは嘘じゃなかった。

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