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昔の話はしたくない
保健室の扉はいつ誰が急に入ってくるかわからないから、施錠することができないのが難点だった。そこは自分の城で、誰にも侵されない領域だったけれど、頭が痛いお腹が痛いと、本当のことかどうか分からないことを言って次々に生徒が駆け込んでくるので、おちおち煙草も吸っていられなかった。そんなものは気のせいだと言って、追い返したのが数分前、また勝手に扉が開く音が聞こえた。
「唯ちゃん」
誰がはじめにそう呼び始めたのか知らないが、今では生徒の誰もが唯のことをそうやって呼ぶ。まるで旧友みたいに。考えながら眉間にシワを寄せて振り向くとそこには嵐が立っていた。嵐は休み時間だろうが授業中だろうがお構いなしによく保健室に来るが、特にいつも用事があるわけではない。ちらりと時計を見上げると、午後の授業がはじまった頃合いだった。
「なんだ、授業中だぞ、お前」
「今誰もいない?」
言いながら勝手に保健室の中に入ってきて、嵐は後ろ手で扉を閉めた。こっちの質問に答えるつもりはないらしい。唯も唯で嵐に保健室に来るような用事がないことくらい、いつも分かっていたけれど、やはり大人としてポーズで聞くことは忘れなかった。
「いないけど」
「良かった」
「具合が悪いところがないなら帰れよ」
何が良いのか分からない、嵐はすたすたと保健室を自分の部屋みたいに歩いて、何の用途で置いてあるのか分からないソファーにぼすっと腰かけた。そんなものは学校には必要がないし、きっとどこかで要らなくなった備品を持ってきて置いてあるのだろうなと思ったけれど、生徒達はそこが好きみたいで保健室に現れてはそこを陣取るのがいつものことだった。
「唯ちゃんさ、この間紅夜のこと車に乗せたんだって」
「・・・べらべら喋りやがって」
あれはもっと気温が低い時だった。夜たまたま紅夜が外を歩いているのを見かけて、親切心で、そんなものが自分に備わっていればの話ではあるが、声をかけたらその後少しだけややこしいことになっただけだった。唯にとってはもうずいぶん昔のことだったけれど、嵐の口振りからはまるで最近のことのように思えた。だから何だと言うのだろう、何を言いに来たつもりなのだろうと思って睨み付けても、嵐はそこを動く素振りはない。
「怒るなよ、紅夜喜んでたから」
「はぁ、俺は面倒くさいことに巻き込まれて迷惑だった」
「唯ちゃんってさ、結構紅夜のこと好きだよな」
そうやって嵐は無邪気ににっこり笑った。そう見えているなら、考えを訂正しておいた方がいいと思ったけれど、唯にとってはどちらでもいいことだった。
(そういや、薄野がどうとか、なんとか言ってたけど)
それはもう大丈夫なのだろうか、あの日、夜の海から帰りたくないと珍しく我儘を言った、俯いた形の旋毛のことを唯はぼんやり思い出していた。きっとそうやって大人相手に駄々をこねることなんて、今までしてこなかったに違いなかった。十分それに付き合ったはずだと思いながらも、だったらもう少し、付き合ってやっても良かったかもしれないと思わないでもなかった。
(だったらなんで、俺相手にはできるんだよ)
大人の範疇に入っていないのか、それとも別の理由があるのか、考えたってどうせ分からなかったし、唯にとってはどうでも良いことだった。
「オイ」
ちらりと嵐の方を見やると嵐はソファーの上に寝転がって、そこで一眠りしそうな様子だった。ベッドを使おうとしないのは、自分が具合が悪くないから、せめてもの譲歩なのか、一体何なのか唯には理解できないし、それもどうでもいいことだった。
「なに、唯ちゃん」
嵐は目をぱっちり開けて、きっとまだ眠くはないのだろうけれど、ぱっちり開けて側に立つ唯のことを見上げた。はじめてコミュニケーションが成立している、と思った。そんなことどうでもいいことなのに、どうして自分はこの野良猫にそんなことを確かめようとしているのだろう。
「お前ら、まだ三人で帰ったりしてるのか」
「え?薄野とかと?帰ってるけど、なに?」
「・・・別に」
だったらなんだと言うのか、そんなことを確かめて、一体何を知りたいつもりなのか、唯には自分でもよく分からなかった。
(だったら大丈夫なんだな、心配して損した)
(心配?なんで)
そんなことを考える必要なんてないはずだった、いつも。嵐が目をぱちくりさせて、どうして唯がそんなことを聞いてくるのか分からないという表情をしている。そんなことは分かっていた、こんなことが気になるなんてどうかしているに決まっていた。
「唯ちゃん知ってんの?誰かに聞いた?」
「なに?」
「いや、紅夜が言ってたんだけど、薄野さぁ、なんか親が引き取りに来たんだってこの間、ホテルに」
「・・・へぇ」
京義はきっとそんな話を誰にもしないから、そんなプライベートなことが漏れるのだとしたら、それはきっと紅夜経由であるはずだった。勿論、唯は初耳だったが、それを知らないでいることが嵐にばれるとそれはそれで馬鹿にされそうだったので、せめて興味のないふりをしていた。
「でも帰んないでホテルにいるんだって。安心してたよ、紅夜」
「・・・ふーん」
他意なんてなかった、ないはずだった、多分。
(安心?なんで)
(それってまだ、気持ちがあるってことだろう)
だったら何だって言うんだと聞かれたら、きっと唯はそれには答えられないと思った。だって自分もそれの正体を知らなかったから。目を閉じて本格的に眠ろうとしはじめる嵐の側を離れて、唯はデスクに戻った。そこにあるようでない仕事が山積みになって残っているのは分かっていたけれど、手を伸ばしてデスクの奥にある窓を開けてみると、そこからまだ生温い風が吹き込んできた。
それに名前なんていらなかった、なくてもよかった。
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