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雛の呼吸が止まるまで Ⅰ
いつも前触れなんかなかったけれど、それも突然の出来事だった。
(メール来てる・・・)
長かった夏休みが終わって、後期日程がはじまった頃だった。染の周りはずっと穏やかだったのに、学校がはじまると毎日ざわざわする気持ちを押さえることもできなくて、ホテルに帰る頃には疲れ果てていることが多い。またその繰り返しに戻っただけだったけれど、この間まで引きこもっていても誰にも文句は言われなかったから、その反動が苦しくないかと言われれば、それは勿論苦しいに決まっていた。3年生になってから、同学年の学生達は残りの単位は数える程度だったけれど、染はというと、途中で逃げ出した科目が多すぎて、まだみっちり埋まったスケジュールとにらめっこをする毎日だった。今日も大講義室の後ろの方の席で、染はキヨの隣に座って講義がはじまるのを待っていた。できるだけ存在感を消しているつもりだったのに、前から歩いてくる女の子と不意に目があって、染は慌てて目を反らしたところだった。滝沢からメールがきていることに気付いたのは。
(嫌な予感しかしない・・・)
滝沢が染に用事があるのは、勿論バイトのことだけだと分かっていたから、染は一瞬そのメールを開くのを躊躇した。鏡利が京義の父親だと言うことが分かったのがこの間で、染はそれには不思議な縁を感じたけれど、京義の方は相変わらずで染が話しかけても大抵のことには返事がなかった。鏡利は結局、あの後また海外に行ってしまったようで、京義は変わらずホテルで暮らしていたから、染の目には何も変わったところはなかったけれど、ホテルの談話室で見た、鏡利の京義を見つめる目は確かに父親のそれだったと思う。スタジオで何度か見かけた姿とは別人のそれで。染は父親のことはあまりよく覚えていないから、何となくしか分からなかったけれど、その染でもあれは父親だと分かってしまうくらい、それは肉親のそれだったと思う。
「染、なんだ、一禾から指令か?」
染が携帯電話を握りしめて、神妙な顔をしたまま動かないので、隣にいるキヨはその肩を叩いた。そもそも染の携帯電話は登録している人間が少なすぎて、滅多なことでは鳴らなかったし、鳴ったとしたらそれはほとんど一禾が相手でしかなかった。
「ちがう・・・滝沢さんから」
「なんだ、バイト?」
「多分そう。しばらくなかったから多分、絶対そうだ・・・」
「なんだよ、まだ見てないのかよ」
通知だけが、染の初期設定のままほとんどいじっていない携帯の画面に浮き出ている。怖くてそれを押すことができない染の親指が震えているのが、隣に座っているキヨのところからははっきり見えた。そんなに怖いのならば、バイトに行かなければいいのにと思うけれど、それを選択できないのも染らしかった。染は怯えながらも、一応それなりに社会適応をしようと努力しているらしい、これでも。
「いいじゃん、何回か行っているし知ってるところだろ。スタッフの人も男しかいないんだろ?」
「・・・うん、一禾が一応話つけてくれてるらしいから」
「あいつほんとに何者なの?」
「なんか知り合いの?女の人の紹介だって言ってたけど」
それってパトロンじゃんと言いかけて、喉まで出かかったそれを飲み込んで、キヨは一応染の手前渋い顔をしてみせた。そんな形の社会適応が染にとって良いのか悪いのか分からなかったけれど、染の類い稀なる美しい容姿はきっと誰かと共有すべきものだとキヨだって一応思わなくもなかったし、それが染に合っているか合っていないかで言えば、誌面を飾る表情はいつも暗くて俯いて泣いている染とは比べ物にならないくらい、いきいきとして美しかった。きっと染はこんな超異常体質でなかったら、こんな風に顔を上げて自己肯定感の塊みたいに生きていくのだろうと思った。そういう染とはきっと仲良くできなかったと思うし、出会うことももしかしたらなかったかもしれないと思えば、暗くてじめじめしている染もそう悪くないような気がするから不思議だった。
「はぁー、やっぱバイトだぁ・・・」
隣で染が意を決してやっとメールを開いたみたいで、その文面を読んで落ち込んでいる。項垂れる染の頭を慰めるつもりでぽんぽんと叩いたら、近くできゃあと小さく声が聞こえて、キヨは声のしたほうを振り返った。そこにはこちらを見ていたであろう、おそらく2年生か1年生の女の子があからさまに振り返ったキヨの視線から逃れるみたいに顔を寄せあっている。
「ヤバイって声大きいから」
「笹倉さんこっち見てんじゃん、気付かれたって絶対」
ひそひそと本人達は話をしているつもりなのかもしれないが、こっちまで筒抜けで聞こえているのに、溜め息を吐きながらキヨはそっちを見ないようにして背もたれに背中をくっつけた。同学年や4年生は、染の異常体質に気付いている人はおそらくいなかったけれど、染が何だか顔は綺麗だけど誰ともつるまないつまらない変な奴だということは、分かってきたのか最近声をかけられることは少なくなった。それでも下級生はまだそれが分かっていないみたいで、そういう女の子の見世物になっている自覚は、隣にいるキヨですらあったけれど、染はそんなことにも気付かないでまだメールを見つめている。
(こうやっていつも誰かに無限に消費されるのも、気の毒って言うか、宿命?なのか)
それで片付けてしまっていいのかどうか、キヨには分からなかった。声をかけてくる女の子だけが実害ではないことを、キヨと一禾は分かっていたが、染は自分の半径何メートルかの間に女の子がいなければ良かった。そういう自分の周りのことしか見えていないのも染らしかった。
「なぁ、キヨ。来週の土曜日空いてるよな」
「だから俺は一緒に行かないって、一禾に怒られたくないから」
「なんでだよ、黙ってたらばれないから」
「ばれるよ、多分」
一禾はそういう奴だった。自分より長い間一禾と付き合っている癖に、何にも分かっていない染には時々驚くが、その鈍感さがあるから一禾の側に長くいられるのだろうと思う。キヨにとっては素直でトゲがない分、染のほうが扱いやすかったが、そんなことを本人に向かってまさか言えるわけもない。それが染の社会適応だと思っているのか、他に理由があるのか知らないが、一禾は一貫して染のバイトのことは口を出さない主義らしい。前にもその話になった時に染がいない間にこっそり、「ついていったりしないで」としっかり釘を刺された後だったので、勿論キヨは一禾の言うことに背いて染の味方をするわけにはいかなかった。
「ま、頑張れよ。また表紙?」
「表紙はもうしない。もう、絶対しないって滝沢さんに言ったから大丈夫」
「大丈夫?いいじゃん、よく撮れてたと思うけど」
「お、俺、あれが売っている間、知らない人に町中で声かけられて・・・ってこの話しただろ」
本当ならば、きっと自慢話になるはずなのに、染はその時のことを思い出しているのか、また涙目になっている。本気でそういうことを言っているから、キヨも最早笑うしかなかった。
「行ったらまた一禾が褒めてくれるって」
「・・・そうかなぁ」
溜め息を吐いて本気でそう言う染の頭を撫でて、また無意識に慰めてしまいそうになって、キヨは手を止めた。また染が無限に消費されてしまっては可哀想だと思ったけれど、染はそんなことには気付かないまま、まだ携帯電話を握り締めて溜め息を吐いていた。
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