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雛の呼吸が止まるまで Ⅱ
「あー、染くん久しぶり!」
そう言って滝沢はにっこり笑うと、片手を上げて入り口でまだおろおろと目を泳がせている染のところまで小走りでやってきた。そうして染がどこを見たら良いのか、その滝沢に何を言ったら良いのか分からないでいると、すっと自然な動作で染の腕を掴んでそれを引っ張った。
「こっちこっち」
「・・・あ、はい」
そうやって染の体に触れるのは、大抵一禾か、それか夏衣か、時々キヨくらいなもので、染はそれにやっぱりどんなリアクションが相応しいのか分からなかった。滝沢の後を俯いてついていくと、いつもの控え室に通されて、染は少しだけ安心して呼吸ができた。何度もここに来ていて、ひとつだけ良かったことは、その場所に慣れることができたことくらいだった。
「今日もかっこいい服用意してるから」
「あ・・・」
染にはファッションセンスがなかったので、滝沢の言うかっこいい服についてはよく分からなかったし、『オペラ』の前進的なデザインについては、もっと理解できなかったので、曖昧にそう呟くことしかできなかった。滝沢は染がどんなリアクションをとっていても、どんなことを言っていてもひとりで楽しそうに喋っていたし、そう言う意味では染がそれを気に病む必要のない相手だったから、ある意味気は楽だった。
「染くんそういやさぁ、まだ夏休み中なの?」
「あ、夏休みはこの間終わって・・・」
「そうなんだ、休み中に連絡すれば良かったね、ごめんね」
「・・・いや」
強張った染の横顔を目の端に捉えた後、秋物のロング丈の羽織りを机の上に広げるふりをしながら、滝沢は少しだけ意図的に口角を上げた。染のことをはじめて見た時、滝沢は夢でも見ているみたいな気分だった。それくらい染の整った容姿には現実的なところがなくて、手が加わっていない分、むしろ不自然に見えるほどだった。こういう業界で働いていれば、顔の整った人間なんかには毎日のように出くわしているつもりだったけれど、そのどれとも染は違って、きっと『オペラ』の看板モデルになるに違いない、と確信した。それなのに染はその美しい容姿をまるで隠すみたいに、俯いて歩いているし、未だに目も合わせてくれない。だからこそ美しく、保っているのかもしれないけれど、滝沢は不思議だった。滝沢の知っているモデルという職業の人間はもっと自己愛の塊みたいな人たちだったし、自己肯定感の高い人間たちだった。そうでなければきっとこんな一見華やかなようでいて、心を磨り減らすような職業にはとても就けないと思っているけれど、一方でこんなにも心の弱そうな染をこちら側の人間にしようとしているのはどうしてなのだろう。
「染くん、前に話したこと覚えてる?」
「えっ・・・?」
「大学卒業したらウチで働かないかって話、考えてくれた?」
「あ、いや」
「まぁ、今すぐじゃなくていいよ、全然、全然ね」
染の顔が一瞬曇ったのを見ながら、滝沢はそんなことはまるで気付かなかったみたいににっこり笑って、そこで話を終えた。これ以上深堀りをして、染に本格的に断られるわけにはいかなかった。染の返事を急いではいけないとわかってはいるけれど、染の煮えきらない返事と態度に、やきもきする気持ちが全くないかと言われたら、それは滝沢の口からは何とも言えなかった。竹下といつか話したことを思い出した、染をこの世界に手招いてしまっていいのか、滝沢だって考えないわけではない。だから染の選択をこんなにも根気強く待っているつもりだったし、無理強いしてはいけないことだって、一応理解しているつもりだった。
(だけどこんな逸材、放っておいたら他の事務所に取られちゃうかもしれないじゃん)
打算もあった、多分。打算がないわけではなかったけれど、それが染に知られなければいいのに、と思うくらいの気持ちは滝沢にもあった。その深いブルーの純粋な目で、まるで自分の味方を見ているみたいな目で、こちらを見られると何もできなくなってしまうことを、滝沢は知っているから。そうして自分が本当に染にとって害悪ではないかと言われたら、滝沢はそれには返事がきっとできないと思っている。そんな純粋な目で見られたって、それにうまく答えてやれないような気がする。そういう心の痛さがないわけではなかった。ちらりと後ろの染を見ると、染は椅子に座ってもなおそわそわとしていたが、滝沢と話していて少し落ち着いてきたのか、鞄の中から携帯電話を取り出してそれを見て少しだけ頬を緩めていた。
「なに?なにかいいことあった?」
「え、あ」
「何か嬉しそうな顔してたよ、染くんがそんな顔するなんて珍しいね」
「あ・・・一禾から連絡来てて、終わったら迎えに来てくれるって」
そう言って染はふにゃっと顔を情けなく緩めて笑った。染の場合、カメラが向いていない時のほうがいつも緊張していて、カメラの前に立っていると自然な表情もできたけれど、いつも滝沢と喋るときにはカチコチに固まっていたから、そんな風に自然に笑ったりしているのが不思議で、年相応の顔もできるのかと、当然みたいなことを滝沢は思い返していた。
(そういえば上月さんって一度もここに来たことないな)
どうも染のほとんど唯一の友人らしかったし、染が話をするのは大体いつも『一禾』のことだったから、滝沢もその存在の名前は知っていたけれど、一禾と実際に会ったことはなかったし、話したこともなかった。どうやら編集の中に一禾の知り合いがいるらしく、染は元々その紹介でモデルとしてやってきたのだったが、そもそもは一禾にオファーしたはずの仕事だったらしいことは、何となく滝沢も聞いたことがあった。一禾は染の友人らしいが、幼馴染みで今も一緒に住んでいるらしい。友達というよりは、どちらかと言えば保護者役割みたいだなと思いながら、染が目を伏せながら歩いているのだとしたら、その安全を確保するために誰かが側にいなければいけないのは、何となく通りで分かるような気がした。
「上月さん来てくれるんだ、俺会うのはじめてだな」
「一禾はほんとに綺麗で、何でもできるから・・・ほんとはこんなのだって、俺なんかより、ずっとうまくやれ、るのに」
一禾の話をする時だけ、いきいきして声が大きくなる染のことを、滝沢はどこかで見たことがあるような気がした。染ははっとしたように立ち上がりかけた姿勢を元に戻して、また椅子に姿勢悪く座り直した。
「染くんだって十分、うまくやれてると俺は思うけど」
「・・・いや、俺は、だって」
言いながら俯いて、染はまた元の形に戻ろうとしていた。どうしてそんなに自分に自信がないのか、滝沢には分からなかったし、不思議だった。100人が100人振り返るような美しい形を持って生まれてきていながら、どうしてそんなに俯くことだけが器用に上手くなってしまったのだろう。
「染くんが表紙やってくれた『オペラ』の売り上げ、良かったけどな。無名の大学生じゃ、普通あんなに売れないよ。それって染くんの実力ってことじゃない?」
「うーん・・・?そう、ですかね。中身が良かったんじゃ・・・」
「あ、そう?もう一回やってみる?」
「もうやりません・・・って滝沢さんに前も言った・・・」
小声で染がそう言うのに、滝沢は笑いながら手を目の前で振って見せた。一度きりの約束だったことを、勿論滝沢だって忘れていた訳ではなかったけれど、もう一度くらい染がそれに頷いてくれてもいいのではないかと思わなくもなかった。勿論打算に違いなかった。
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