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雛の呼吸が止まるまで Ⅲ

「滝沢」 染の控え室を出たところで、後ろからそう声をかけられて滝沢は振り返った。そこには竹下が立っていて、滝沢と目が合うと片手を上げて合図をした。滝沢はそれを見ながら、普通の人はこうやって目を合わせるのに躊躇したりしないことを思い出した。 「なんですか、竹下さん」 「染、来てんのか」 「来てますよ、着替えてます」 「早織ちゃん、帰ったの見た?」 さっきまで撮影をしていた女性のモデルの名前を竹下は不意に出してきて、滝沢は一瞬竹下が何を言いたいのか分からなかった。早織はもう1時間も前に撮影が終わったはずだった。そんなにスタジオに長居をするタイプでもないし、勿論もういないはずだった。『オペラ』は男性向けファッション誌だったが、企画の内容によっては時々女性のモデルをキャスティングして一緒に撮影することも決して少なくはなかった。早織は『オペラ』には何度も呼ばれたことがある常連のモデルだったから、その人柄を滝沢も知っているつもりだった。 「いや、見てないですけど、帰ったんじゃないですか。忘れ物ですか?」 「そういうんじゃないんだけど、染来てるなら帰ったの確認しといたほうがいいかなって。あいつホラ、女の子駄目なんだろ」 そう言えばそんな話を染から聞いたことがあった。それで染が来る日には女性のスタッフを入れないように配慮をしていることを、あまりにも自然にやり過ぎて忘れていた。がさつそうに見えて、竹下は意外とちゃんとしているところがあるところを、滝沢は知っていた。 「分かりました、確認しときます」 「しといて。早織ちゃんさぁ、前に染が表紙やったの見て、染に会いたいって言ってたから」 「あぁ、そういう・・・」 なんとなく早織にはそういうミーハーなところもあったなぁ、と考えながら、そんなことをわざわざ自分に確認しにくる竹下のことがおかしくて滝沢は笑った。染が以前撮影で来ていた若手俳優にサインを貰ったみたいなことを、早織がまさかしないとは思っているけれど、偶然スタジオの中で会えたらと思うかもしれないし、それを期待して少し帰宅時間を遅らせるくらいのことはしそうだった。 「まぁ、あんなの見たら会いたいですよね、そりゃ」 「なんか間違いでもあったら困るだろ、お互いに」 「染くんに限ってそれはないですよ、多分」 こういう業界なのでスキャンダルで急に誌面に穴が空くこともないわけではなかったけれど、自分相手にすらまだ満足に目を合わせて話ができない染に限ってそんなことは有り得ないと思って滝沢は笑ったけれど、竹下は思ったよりもずっと真剣な目をしていた。 コンコンと扉をノックする音がして、染は着替えていた手を止めた。滝沢が出ていってそんなに時間は経っていなかったけれど、もう時間になってしまったのだろうか。染は慌てて手を急がせて、シャツのボタンをかけ違えないように気を付けながら全部止めた。 「はー・・・い」 自分に出せるできるだけの声で、それに返事をしたつもりだったが、しばらく待っても扉は開かなかった。きっと聞こえていないのだと思って、染は慌てて扉まで走っていくと、その扉を開いた。自分の声があんまり大きくないことも、通らないでいることも染は知っていたからだ。 「あ、いた」 そこには滝沢がいるものだと思っていたが、染が扉を開けたその向こうには見知らぬ女の子がひとり立っているだけだった。染の頭の中に危険信号が流れて、みるみるうちに視界が歪んでいくのが分かった。女の子、早織は染を見上げるとにっこり笑って部屋の中に入ってくると、後ろ手で扉を閉めた。奪われていく思考力の中で、染はそこから距離を取らなきゃと思って、本能的にそう思って足を少しだけ後退させた。唯一の逃げ道だった扉は早織の後ろで無情にも閉められている。 「突然ごめんなさい、私『オペラ』で時々お世話になっている早織って言って、一応モデルやってるんですけど」 「黒川さん?この間の表紙見ました。凄く素敵だったから一度ご挨拶したくて。今日来るって聞いたので、押し掛けちゃってごめんなさい」 頭の中が湯だったように熱くなって、染は早織が口をぱくぱく動かして、何かを言っているのは分かったが、それが一体何を言っているのかまでは、よく聞き取れなかったし分からなかった。また少し足をゆっくり後ろに後退させる。ここには自分を助けてくれる人が誰もいないことは分かっていたから、なんとかしないといけないのも分かっていたけれど、染には最早、早織からせめて距離をとることしか出来なかった。耳鳴りが耳のすぐ側で聞こえて、背中に汗が伝うのがやけにはっきり自覚できた。 「本物に会えて嬉しい、写真で見た時も思ったけど、本物はもっときれい。私、黒川さんみたいなきれいな人はじめて会ったかも」 「黒川さん?なんか・・・顔色悪いけど、大丈夫?」 早織の手が伸びてきて、染のとった距離なんて一瞬で無効にされた。その白い指先が目の前でふっと形を変えて、染の腕を掴んだ。そこからぞわっと気持ちの悪いものが這い上ってくる感覚がして、染は一層目眩がひどくなったのが分かった。 「・・・る、な」 「え?」 「触るな!」 染がそう叫んで、早織ははっとしたように手を離した。染はよろよろと動いて、今にも倒れてしまいそうだったけれど、早織と距離をとる方法がそれしかなかったから、壁を伝うように歩いて部屋の隅まで歩いた。それでも耳の側で上がった自分の息が切れた音がぜいぜいと聞こえた。 「ご、ごめんなさい、黒川さん、だいじょう、ぶ?」 早織の声がずっと向こうから聞こえる。もしかして部屋から出ていってくれたのかもしれない、染は頭の中の冷えた部分でそう考えながら、それ以上動けなくなって、ゆっくり壁にもたれるみたいにずるずるとその場に倒れ込んでしまった。もう一ミリも動けそうになかったけれど、意識を手放してしまえば、怖いものも全部なくなるからそれはそれで困ったことなんて一度もなかった。ブラックアウトしていく視界の中で、染はやっぱり外の世界は怖いしこんなところ自分には似つかわしくない場所だと知っていたのに、どうして来てしまったのだろうと思った。そうやって誰かに評価されることが、それが自分の一番呪っている容姿のことだって、それだって嬉しかった、誰かに認めてもらえることが一番。 「ちょっと待って!誰か来て!」 早織の声が遠くに聞こえた。

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