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雛の呼吸が止まるまで Ⅳ
遠くで女の子の叫ぶ声が聞こえた。
「・・・早織ちゃん?」
目の前にいる竹下に目を合わせると、竹下は小さく頷いた。その日に限ってそれから染の控え室まで、廊下が随分長い気がした。何か確信があったわけではないけれど、染の控え室まで気が付いたら走り出していた。すぐ後ろを竹下が黙ったまま追いかけてくるのを、気配だけで感じる。『何か間違いが』と竹下は言ったけれど、それは多分、滝沢が考えていたことではなかった。スキャンダルとか、そういうレベルの話ではなかった。目を離すべきではなかったし、もっと徹底的に管理をすべきだった。こんなことになる前に。
「あ、滝沢くん、いいところに!染準備できたらスタジオ連れてきてー」
前から歩いてきた佐藤にそう声をかけられたが、それに返事をしている暇はなかった。無視して走って滝沢が自分の側を通りすぎるのを、佐藤は不思議そうに視線だけで追いかける。
「あれ、竹下さん?」
「ごめん、佐藤。ちょっと待ってて!」
竹下が擦れ違う瞬間に振り返ってそう声をかけてくるのに、佐藤は曖昧に返事をするしかなかった。何だかただならぬ空気を感じたけれど、それが一体なんなのか、その時佐藤には分からなかった。
「・・・あ、うん。はやくね・・・」
染の控え室まで辿り着いた時、それは滝沢がそこから出ていった後から全く変わっていないように見えた。滝沢は一応息を整えてその扉をノックした。すると声をかけるよりもはやく、扉が開いてそこから半泣きの早織が顔を出した。予想は的中していた。
「早織ちゃん」
「滝沢さん、どうしよう・・・」
「大丈夫、何があったの」
「分かんない、分かんないんだけど、けど、黒川さんがぁ」
言いながらぼろぼろ泣き出す早織を宥めながら、滝沢は早織が指差す部屋の奥に目を向けた。そこには着替えが中途半端にしか終わっていない染が不自然な形で床に倒れていた。ひゅっと喉の奥が狭まって、呼吸ができなくなる感覚があった。
「・・・染くん」
「早織ちゃん、部屋から出て。とりあえず自分の控え室戻って」
「竹下さん、私、私なにもしてない、からぁ」
「分かってるから、マネージャーさんいる?連絡してきてもらうか、ひとりで帰れるならタクシー呼んであげるから」
後ろで竹下が早織と話している声が聞こえた。滝沢は染にふらふらと近寄っていくと、染の顔の見える位置にしゃがんで、床に膝をつけた。染は気を失っているようで、その目は閉じられていたけれど、薄く呼吸をしている音がその場所からも分かった。
(息してる・・・よかった)
しかしその顔色は滝沢が話していた時に比べて、血の気が引いて真っ青で、まるで人形みたいに生気がなかった。怖かった、さっきまで確かに話していたのに、物みたいに床に転がっている染のことも、それを目の前にしてどうしたらいいのか分からない自分のことも。
「・・・おい、滝沢」
「・・・竹下さん」
早織をどうにか片付けたのか、気が付くと竹下がやけに近くに立っていて、滝沢はそれを見上げながらぼんやりと呟いた。床に横たわる染をどうしたらいいのか、滝沢には分からなかった。竹下も黙ったまま染の近くにしゃがんで、染の肩を掴んで揺さぶった。乱暴な動作に、染の体がまるで物みたいにぐらぐら揺れるのを、滝沢は見ていることしかできなかった。
「染、染、起きろ、大丈夫か」
「・・・反応ないですね」
竹下が染を揺さぶるのをやめてくれて、染は依然として目を開けることはしなかったけれど、滝沢は少しだけほっとした。
「・・・呼吸はしてるみたいなので、大丈夫だと思うんですが・・・救急車とか呼んだほうがいいでしょうか」
「んー・・・休ませてたら起きる?何でこんなことになったんだろうな」
「早織ちゃん、なんて」
「いや、ただちょっと話したかっただけだって。部屋に入った時から顔色もおかしかったし、きっと具合が悪かったんだろうって」
そうだろうか、滝沢はそれを聞きながらただ純粋にそう思った。滝沢にはさっきまで話をしていた染は、いつもと同じように見えたし、具合が悪そうなところなんてひとつもなかった、なかったように思う。それにきっと、染は具合が悪かったら、バイトは断って家で眠っているに決まっていた。そんな体調を押してまで、ここに来る意味を見出だしていないのだ、他のモデルと違って。それをどう竹下に説明したらいいのか、滝沢には分からなかったから黙っているしかなかった。
「いや、多分元気でしたよ。俺と話してた時は」
「じゃあ早織ちゃんと話してたら具合悪くなったってこと?」
「・・・たぶん」
別段早織が嘘を吐いていると思っているわけではなく、早織の目線から見たらそうしか説明することができないし、きっと大抵の人にはそんな風に誤解されているのだろうと思った。そう言えば染と一度食事に行った時に、女の人が駄目なのだと言って、ぶるぶる震えながら冷や汗をかいていたのを覚えている。その時は店員が女性だっただけで、染は彼女と話していたわけでもないし、ただ近くに立って注文を取っていただけだった。その時はそういう人もいるのか、まぁ確かに特殊な体質だなぁぐらいの認識しかなかった。染の容姿は確かに一線を画していたし、そのせいで何か過去に嫌な思いでもしたことがあったのかもしれない、それ以上にいい思いもしていそうだけれど、そのことくらいしか、滝沢には考えが及ばなかった。
「なぁお前さ、染のことどこまで知ってる」
「え?」
「苦手って、レベルで片付けられるもんじゃないだろ、これ」
「・・・ーーー」
「普通じゃねぇよ、こんな、失神しちまうなんて」
知らなかった、何か知っているのかと言われたら多分、何も知らなかった。
「・・・いえ、でも確かに、一緒にご飯に行った時も様子がおかしかったことはありました。昔嫌なことがあったからって震えてたな、その時も」
「嫌なことって?なんだよ」
「・・・さぁ」
知らなかった、何も。
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