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雛の呼吸が止まるまで Ⅴ

滝沢と竹下が倒れた染の側でどうすることもできずに、途方にくれている時、不意にその静寂を破って携帯電話のバイブ音が聞こえた。滝沢ははっとして音のした方に振り返る。そこには染の持っていた黒い鞄がひっそりと置かれていた。躊躇する時間もなく、滝沢はそれに手を伸ばして中から携帯電話を引っ張り出していた。竹下が隣で何かを言っていたような気がしたけれど聞こえなかった。 「・・・上月さんだ」 携帯電話のディスプレイには、『上月一禾』と名前が光っていて、それは偶然ではないようだった。雑誌の編集者の偉い方と知り合いだという一禾のことを、滝沢も少しだけ知っていた。染とは真逆の社交的で年齢以上に落ち着いた美しい男だった。はじめは一禾にモデルの仕事をやらせるつもりだったらしいが、その一禾が自分の代わりに差し出してきたのが、床に転がっている染だった。 「オイ、滝沢」 ぼんやり考えていると、竹下がしびれを切らしたみたいにそう言って、滝沢は携帯電話を握ったまま、慌てて振り返った。まだ手の中の携帯電話は震えて染の応答を辛抱強く待っている。自分がまさか、染に返事をしてもらえないなんてことがないことを知っているみたいに。 「誰だよ」 「上月さんです。染くんを紹介してくれた・・・」 「あー、誰だっけ。編集者と知り合いの?」 「そうです。出ていいですかね」 言いながら、竹下の返事を聞かないままで、まだ震え続ける携帯の通話ボタンを押す。そうしなければ着信はやまなかったと思う。 「もしもし」 『・・・あれ、染ちゃん?』 「すみません、滝沢と言います。染くんなんですけど、撮影中に倒れてしまって・・・」 言いながら倒れたままの染をちらりと見る。染はそこから少しも動いた気配がなくて、滝沢は心臓がまた少し冷えたような気がした。 『え、倒れた?』 「すみません、勝手に、あの。他のモデルの女の子が話しかけちゃって・・・」 『あぁ・・・』 電話の向こうから一禾の気が抜けたような声が聞こえて、滝沢は全くほっとできなかったけれど、一禾にとってはこれはプラスの方の情報なのだとそれを聞きながら思った。 「あの、大丈夫なんですかね、救急車とか呼ぶべきなんでしょうか」 『大丈夫ですよ。ご面倒をおかけしました。これから迎えにいくので、休ませておいてください』 「・・・はぁ」 自棄に一禾は落ち着き払った声で言って、滝沢はもう一度倒れている染のことを見やった。 「オイ、滝沢」 「なんですか」 竹下がそれとほぼ同時くらいにまだ電話している滝沢に話しかけてきて、滝沢は慌てて携帯電話の音を拾っているであろう箇所を申し訳程度に手で覆って返事をした。 「目を覚ましたぞ、染」 「えっ」 慌てて滝沢が駆け寄ると、染は倒れた格好のまま、ぼんやりと確かに目だけを開けている。 「染くん、大丈夫!?」 『目を覚ましたんですか、染ちゃん』 耳元でそう声がして、はっとして滝沢は携帯電話を握り直した。まだ通話は繋がったままだった。染は目を開けただけで無反応だったが、伸ばしていた手を引っ込めて滝沢は誰もそんな自分のことを見ていないのに、姿勢を正すことを止められなかった。 「あ、今、ちょうど・・・」 『すみません、染ちゃんに代わってもらっていいですか』 「あ、はい・・・」 相変わらずこちらの焦燥なんてまるで気にする風ではなく、一禾がそう言ったので、滝沢は無反応の染にどうやって携帯電話を握らせればいいのか分からないまま、そう返事をした。染はそのブルーの目をぼんやり宙に漂わせて、ピクリとも動かない。 「染くん、大丈夫?上月さんだよ」 滝沢がそう小さく呟いて、電話をスピーカーにすると染の長い睫毛がぴくりと動いて、そのブルーに意思が宿った気がした。 『染ちゃん、大丈夫。大変だったね』 スピーカーの向こうから、一等優しい一禾の声が聞こえてきて、染の目がすうっと携帯電話を捉えた。 「・・・いちか」 『大丈夫だよ。今から迎えにいくから横になってて。頑張ったね、すぐ行くから』 「・・・うん」 力なく染は頷いて、それからまた意識を手放すみたいに目を閉じた。滝沢は一禾の話したいことが終わったのをそれで察知して、スピーカーを解除してから自分の耳にもう一度当てた。染は一禾のことを幼馴染みだと言ったけれど、とてもそうは見えなかった。少なくとも滝沢にはそうは見えなかった。まるで一禾は自分の弟、ともすれば自分の子どもに話しかけるみたいな。こんな状況でなければ、それに背筋が寒くなったことを、滝沢はもっと自覚的になったかもしれない。 『滝沢さん、すみません今から迎えにいくので。もう少し休ませておいてもらってもいいですか』 「・・・分かりました、それは全然、大丈夫、です」 『ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてすみません』 「スタジオの住所、お送りしましょうか」 『大丈夫です。把握しているので』 失礼しますと言いながら一禾が通話を切って、滝沢はまだ熱い携帯電話を握ったまま、まだ床に倒れたままの染を見やった。 (把握してる、って怖い、言い方、だな) そんなことを一禾相手に思う必要もなければ、そんなことに引っ掛かっている場合でもないけれど、滝沢は考えていた。染があの日自分に伝えようとしてきたことも、友達になってと頼んできたことも、全部。

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