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雛の呼吸が止まるまで Ⅵ

それから一禾がスタジオに来るまで、染をベッドのある部屋に移動させ、今日の撮影スケジュールを組み直していたら、あっという間だった。 「この度はご迷惑をお掛けしてすみません」 記憶の中の一禾より、それはもっともっと鮮明に見えて、染のほうが基準から外れているのか、それとも一禾がずれているのか分からないが、まるで大人のそれだったので、滝沢は何も言うことができなくて黙ってしまった。榛色の痛んでいない髪の毛がさらさらと目の前で形を変えて、滝沢は一禾が顔を上げてこちらを見ているのと目があったのが分かった。 「・・・いえ、こちらのほうこそすみません」 「染ちゃん、大丈夫ですか」 そう一禾が開口一番言ったことで、滝沢は少しだけほっとしていた。当然ではあるけれど、一禾も今日予定があってどこかで何かをしていたのかもしれない、それをどうにか都合をつけてこうして飛んできてくれている。その行動は染のことを心配しているからで、間違いはないのだと思ったら、滝沢はそれは自分にも理解できると思ったから、自分の尺度で勝手に浮き沈みしている。 「今は落ち着いてます。どうぞ」 「すみません」 一禾は口の中でもう一度そう呟いて、狭い廊下を滝沢についてきた。スタジオの場所が分かっても、この建物のどこに染がいるのかこの人は分からないのだと思ったら、そのことも少しだけ安心している自分がいた。何故なのか分からなかったけれど。 「あの、今回みたいなこと、はじめて、じゃないんですよね?」 「倒れてしまうことですか?まぁ・・・そんなに頻繁にあることじゃないですけどね」 自棄に落ち着いていた一禾は、染が自分の声を聞けば落ち着くことも知っていたみたいだった。滝沢は後ろを歩いている一禾をちらりと見やった。 「聞いてもいいですか、染、くんっていつからあんな風なんですか」 「・・・ーーー」 暗くて狭い廊下で、滝沢がそこに立ち止まってしまったら、一禾はそれ以上向こうには行けないくらいの幅しかないその場所で、滝沢はなんとなく染にそれを聞くことはできないことは分かっていたから、真実を教えてくれる人がいるのだとしたら一禾しかないことも知っていた。一禾は急に滝沢がそんなことを言い出すと思っていなかったみたいで、目をしばたかせていたが、それすら滝沢には演技染みて見えた。 「本当にご迷惑をお掛けしてすみません」 少しの沈黙の後、一禾は目元を緩めてただそう呟いた。まるで真実を教える気はないと言っているみたいだとそれを見ながら滝沢は思った。 「モデルの子が少し話しかけただけで意識を失って倒れたんですよ。そんなこと、普通じゃない、と僕は思います」 染のことを普通じゃないなんて言ってしまっていいのだろうかと思いながら、滝沢は一禾から目を背けながら声を絞り出してそう言った。けれど一禾は少しもその表情を崩すことなく、ただ微笑んでこちらを見ていた。まるでそんなことにも慣れているみたいだった。 「ご迷惑をおかけしてすみません。染ちゃんはそれでもこのバイトを続けたいみたいなんですよ、それは皆さんが理解してくれていて、配慮してくださっているからだと思うんですけど。これでもしこれ以上契約は続けられないということならそれは仕方がないことなので、僕からもそう伝えておきます」 「・・・そういう、ことを言って、るんじゃなくて」 「あの子が自分で説明できないことを、僕が勝手に喋るわけにはいかないので」 それは正論だと思った。染は弟でも子どもでもないのだということを、分かっているはずだったのに、今さら理解させられたみたいな気がした。はっとして一禾を見ると、その美しい顔を緩めて、ただ一禾はこちらを見ていた。綺麗な人だった、はじめから。染とは種類が違うけれど。きっとずっとそうやって染の側にいて、染のことを守ってきたからこの人にとっては今日のことなんて普通のことなのだろう。そう思うと、滝沢はそれ以上一禾に何も言えないような気がした。 「すみません、そういうことじゃないんです。染くんにはまた来てほしいと思ってるんで、今の話は本人にはしなくて大丈夫です」 「そうですか、なら良かったです」 感情のない声で一禾がそう言うのを、滝沢は背中で聞きながら、止めていた足をようやくまた進めはじめた。染のことを普通じゃないなんて言いたくないし、思いたくなかった。普通じゃないことが分かっているから、あんな風に手足を丸めてまるで自分のことを守ろうとしているみたいにしか、生きていけないのを知っているから。せめてその姿を知っている自分は、染に優しい世界でありたかった。だからそんなことを聞くべきではなかったし、多分知りたいのはそんなことではなかったはずだった。 楽屋の扉を開けると、染はベッドの上に座っていて、携帯電話を触っていた。その姿はいつもと変わらない様子でさっきまで倒れて動けなくなっていたようには思えなかった。隣にいた竹下が立ち上がって、一禾に向かって軽く会釈をしたのが見えた。 「染ちゃん」 「いちか」 ぼんやりした声のまま、染がその深いブルーで一禾を捉えて、そして少しだけ口角を上げて不器用に笑った。一禾は滝沢が思っているよりずっと慌てた様子でベッドに駆け寄ると、本当に自然に躊躇いなくその顔を長い指で撫でるようにした。 「もう大丈夫なの?」 「あー、うん。たぶん」 染が照れたようにその手を払うような仕草をして、持っていた携帯電話を鞄の中にそそくさと仕舞った。その姿は早くここから出ていきたいのが見ているだけで分かるようだった。迎えに来た親とその子どものような構図に戻っている、考えながら染が背中を丸める姿をぼんやりと見ていた。もう何が普通で、何が普通ではないのかよく分からなかった。二人には二人にしか理解できない世界があって、そこで生きているのだろうと、ぼんやり滝沢は思いながらそこから排除された苦味を抱えるしかできなかった。 「心配したよ、倒れたって聞いたから」 「大丈夫、寝てたらよくなったから」 先程一禾が言ったように、自分のことを染は説明することができないのだと思ったけれど、一禾は見ていたかのように何があったのか分かっているのだと思った。 「すみません、本当にご迷惑をおかけして」 「大丈夫です。こちらも・・・ーーー」 竹下のよそ行きの声がするのを、滝沢は自分が立っている場所から随分遠くから聞いていた。

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