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雛の呼吸が止まるまで Ⅶ
高級外車の運転席に戻る前に一度こちらに向かって頭を下げて、一禾はほっとした様子の染を連れてスタジオから姿を消した。それを見送ってもまだ、滝沢の胸には靄がかかったようになっていた。それが説明できないのは滝沢も同じだった。高級外車のヘッドライトが地下の駐車場から消えて、辺り一体が暗くなってしまった後も、それにめをこらしてしまうくらいには。
「染の、誰か別の奴呼んで撮り直しかなぁ」
「・・・あぁ、そうですね」
竹下が面倒くさそうに隣で呟くのに、そうやって適当に返事をしながら、滝沢はまた一禾と一緒に歩いた廊下に戻ってきていた。
「らしくねぇの、染じゃないとダメだとか、スケジュールぎりぎりまで待ってくれとか、そういうこと言いそうなのに、お前」
「えっ・・・どういう、印象なんですか、俺」
言いながら笑って、確かに今までならそんな風に言ったかもしれないと思いながら、竹下の横顔を見たけれど、竹下の視線はこちらにはなかったので、滝沢は少しだけほっとした。今は少しだけ染に会うのが怖かった。また同じことが起きてしまいそうで、同じことが起きたらきっと、自分は同じように思うのだろうと思ったら、余計に。そんなことを思ってしまう自分のことが嫌いになってしまいそうなくらいには。
「上月さん、何て言ってた、染のこと」
「・・・なんていうか、詳しくは教えてもらえませんでした」
「ふーん・・・まぁ精神的な、あれかな」
染のような人ははじめて会ったけれど、染のような精神的に不安定な人は業界には多くはないが、決して少なくもなかった。竹下の言いたいことはそういうことなのだろうと分かったけれど、染をそういう人たちと一くくりにしていいのか、滝沢は分からなかった。そうしてそういう精神的に不安定な人はこの仕事は長く続けられないことも、滝沢は知っていた。それでも染にこの業界にいて欲しいと思うことは、もう自分のエゴかもしれないと思うけれど、一番近くで染を見ている一禾は平気でまた同じことをさせようとしている。あんなに一番心配をするくせに、その齟齬のこともどうしたらいいのか分からなかった。
「竹下さん、染くん、続けられるでしょうか、続けさせていいんでしょうか」
「・・・さぁ、需要があるなら続けられるし、あいつが辞めるって言うならそれまでだろ」
竹下の言い方は冷たかったが、滝沢はそれも正論だと思った。
「普通じゃない、あんなの」
「そうだな、生きるの大変そうだな、あいつ」
今度のそれは冷たく聞こえなかった。なぜだろう。
助手席はいつもと同じ匂いがして安心して、染は半分目を瞑っていた。染にとっては最悪のアクシデントだったけれど、そのせいで撮影は中止になったし、一禾は迎えに来てくれて優しくしてくれて、喉元を過ぎれば忘れてしまう染にとっては悪いことではなかった。
「染ちゃん、大丈夫だったの」
運転しながら染には視線をやらずに一禾が呟く、こんなことで今更一禾は慌てたりしないことを染は知っていた。少しだけ顔を一禾の方に向けると、知らない甘ったるい香水の匂いがした。ここに来る前に一禾はどこで誰と何をしていたのだろうと思うと、染は喉の奥がきゅっと絞まって呼吸ができなくなるかと思った。その方が体に悪いことを、多分一禾はまだ知らない。
「大丈夫、ちょっと触られただけ」
「そう、女の子スタジオの中に入れないでくれって言ってあったんだけど」
「うん、多分・・・滝沢さんとか、のせいじゃないよ」
あの子が自分でそうすると決めて、勝手にしたことであることは、その言葉の端々からも感じられた。学校では声をかけられることは入学当初こそ頻繁にあったが、最近は染が相手にしないというかできないことが分かったのか、女の子たちは遠巻きに見てくることはあっても、直接アクションを起こしてくる子は少ないから、触られることも久しぶりだったような気がした。滝沢も竹下も染の前ではいつも明るい人ではあったので、あんな沈んだ表情をすることもあるのかと思うと、染にはその視線が少し恥ずかしいような気がした。
「触られたの、久々だったから、ちょっとびっくりしただけ」
「確かに。距離空けてれば最近、電車とかも大丈夫だもんね」
「混んでなければ、な」
大丈夫と言われるほどは耐性があるわけではなかったけれど、一禾はまるでそうやっていつでも手を離す準備をしているみたいで苦しかった。そんなことを言っても、駄々をこねているみたいで不格好だったから、染はひとりで唇を尖らせておくことしかできなかった。
「まだ頑張るんでしょ、バイト」
「・・・うーん・・・」
「いい人たちじゃん、また新しく人間関係作って、ってするの大変だよ。今のところで頑張りなよ」
「うーん・・・」
一禾がそんなことを言ってくるのは珍しいなと思いながら、染はその高い鼻筋の通った横顔を見ていた。
「またこういうこと、あるかもしれない、じゃん。やっぱり俺には向いてない気がする」
「またあったら迎えに行くよ、だから大丈夫でしょう」
そう言って一禾があははと笑って、笑い事じゃないと思ったけれど、それはそれでも良いような気がしてくるから不思議だった。誰とどこで何をしていてもきっと一禾は自分のことを迎えに来てくれる、それさえ分かれば別に他のことはどうでも良かった。
「なぁ一禾、俺って昔からこうだったっけ?」
「昔って、いつ頃?」
「うーん、女の子と普通にしゃべれてたこともあった、よな?」
「そうだっけ」
思い出そうとするとそのところだけが靄がかかったみたいになって、いつもそこから思い出すことができない。生まれたときからこんな得意体質ではなかったと思うが、だとしたらいつ頃からそうなったのか、何があってそうなったのか、染は全くそれを思い出すことができなかった。
「一禾は覚えてるだろ、俺はなんか、うーん、思い出せないんだけど」
「まぁ良いんじゃないの、だったらそれで」
「えー・・・」
「大事なのはこれからのほうだから、ね」
言いながら一禾があははと笑って、染は笑い事ではないのに、自分は真剣に悩んでいるのに、と思ったけれどそれ以上何か言うのはやめにした。一禾がそう言うならきっとそうなのだろうし、そういうことにしておくほうが、自分としても安心だと思ったからだ。
知らなくても良かった、誰にも言う必要がなかったから。
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