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手元の明かりで照らせ

はじめて見た時に、とても綺麗な人だと思った、ただ、それだけ。 「あれ、早織ちゃんまだ帰ってなかったの」 「うん、まぁ」 目を伏せた彼女は小さくそう呟くと、気まずそうに滝沢から視線を反らした。滝沢はその理由を知っていたけれど、知らない振りをして黙っていた。そういう自分の狡さみたいなものを嫌いになったり、好きになったりするのはなぜだろう。早織はそこで何を言うべきか迷っているみたいに黒目を忙しく揺らして、ただ俯いて黙っていた。滝沢は染が着るはずだった服を手早く机の上に並べながら、早織のほうは見ないように努力しているつもりだった。代わりを探すにしてもどうしても、一度これは仕舞っておかなければいけないことになった。上層部には体調不良と報告しておけば、しばらく納期は延びる予定だった。 「その、黒川さんもう帰ったの」 「うん、迎えに来てもらって」 「誰、彼女とか」 「そんなんじゃないよ」 きっと彼女は悪気なんかなかったけれど、滝沢にはその時染の気持ちが分かるようだった。そうやって人のプライベートにずかずか土足で上がり込んでくる感じとか、初対面の人間の腕を急に掴んでしまう感じとか、彼女が悪いわけではないことは分かっていたけれど、誰かを悪者にしたい気持ちは、もちろん滝沢だって持っていた。それは染をここから追い出して、もしかしたらもう二度と戻ってきてくれないかもしれないという不安と、一方で染が仕事ができなかったせいで穴が空いた紙面のことも含めて。 「ごめんなさい、私、本当に何もしてなくて」 「分かってるよ」 「急に具合が悪くなって、急に倒れたの。きっと元々体調が悪かったんだと思う」 「・・・そう」 自分が何かにイライラしているみたいに、彼女も誰かの何かのせいにしたい気持ちがあるのはよく分かっていた。けれどそれを自分が慰めてやる筋合いはないと思っていたから、滝沢は自分の声がどんどん掠れてしまっていくのを止めることができなかった。 「もう帰りなよ、早織ちゃん」 「分かってる、でも」 「だって、本当は黒川さんが来るまでに帰る予定だっただろ」 そうやって指示を出して、女性をこの建物から全員外に出す予定だった。それは染がはじめて撮影しに来た時から誰かに、おそらく一禾にそう言われていたことだった。はじめはどうしてそんなことをしなければいけないのか、全く理解できなかったけれど、今となってはもっと厳重にその教えを守っていたらよかったと下唇を噛むことしかできなかった。それくらいしか、もう滝沢にはできなかった。 「だって、いいじゃん、ちょっと・・・顔見たかっただけなんだもん」 「そう」 滝沢がそう小さく呟くのが、ひどく素っ気なく聞こえて、早織は少しだけ背筋が寒くなったのを自覚しなければいけなかった。別段、この現場で滝沢は上の人間ではなかったし、それにどちらかと言えば、いつも丁寧で滝沢は優しかった。こんな立場の人間に取り入る必要はないと思いながら、早織は純粋にただ目を伏せてこちらを見ずに淡々と手を動かし続ける滝沢に傷ついていた。 「そんなに冷たい言い方しなくていいじゃん。謝ってるでしょ」 「・・・俺に謝っても仕方ないでしょ」 伸びた前髪の隙間からちらりとこちらを見たのと目があって、早織はぐっと奥歯を噛んだ。もうこの滝沢に何を言っても今は無駄なことが分かった。 「なんでそんな、ひどい言い方すんの」 「してないよ、ひどい言い方なんて」 「みんなそうじゃん、竹下さんも怒ってたし、確かに綺麗かもしれないけど、ただの大学生のアルバイトなんでしょ。ちょっと表紙になったからって調子乗ってる・・・」 言いながら、楽屋で見た染の表情が蘇ってきて、そんなことは全然本質を突いてないと思ったけれど、早織の口からはもう言葉が出てきてしまっていたから、それを拾って飲み込むわけにはいかなかった。滝沢がいつの間にか手を止めて、真っ直ぐこちらを見ているのと目が合う。今目が合うのは違うと思ったけれど、それを滝沢にどう伝えたらいいのか分からなかった。 「・・・ごめん」 「俺に謝らなくてもいいよ、もう帰りな」 振り上げた拳の行き場所がなくて、ただ早織はその場所に頭を垂れた。 「滝沢さんさぁ、好きなの、あの子のこと」 一瞬机の上の誰も着なかった服に視線を戻していた滝沢の横顔に、そう声がぶつかって、確かにぶつかったような気がしたのに、振り返った時にはもうそこには見えなくなっていた。 「・・・どうして」 「怒ってるじゃん、だって。仕事に穴空けられたくらいじゃそんなに怒らないでしょ」 職業柄顔の綺麗なモデルと仕事をすることが、ほとんど毎日のことだったけれど、確かに竹下にも「目をかけすぎ」「距離感がバグってる」と言われたところだった。鏡利にも「滝沢くんがそんなに売り込んでくるなんて珍しいね」と笑われたこともあった。自分でもよく分かっている。このもやもやした気持ちが、ただ仕事に穴を空けられたことだけではないくらい、よく分かっていた。この感情はそれとは別のものだったけれど、それが恋愛感情なのか、それとももっと人間的な気持ちなのか、滝沢にもよく分からなかった。 「だからそんなに怒ってるんだ」 「・・・なんでそうなるんだよ」 「だって変じゃん、表紙も滝沢さんが推薦したんでしょ。鏡利さんあなたのこと買ってるもんね、言われたら名前の売れてないモデルでも使っちゃうとは思わなかったけど」 「そんなことないし、黒川さんはちゃんと売れる実力のある人だよ。早織ちゃんもだと思ったから顔を見に来たんでしょ」 「そうだよ、でもあんな風に拒絶されると思わなかった」 早織が早口で捲し立てるように言って、滝沢はもう一度溜め息をついた。確かに鏡利に売り込んだのは自分だったし、鏡利がそもそも自分のことを目にかけてくれていることも分かっていた。そうして染を一目見れば、誰もが彼の魅力に夢中になることだって。 「拒絶?」 「振り払ったの、触るなって。あんなの普通じゃないよ。あの人きっと普通じゃない」 「・・・ーーー」 「やめた方がいいよ、滝沢さん」 そう言って早織はようやく部屋を出ていった。廊下を派手に叩くヒールの音が滝沢の耳に最後まで残っていて、それ以上何も言えなかった。どう考えたって無理だった、あんなもの、あんな丸ごと誰かのものみたいなのに、どう考えたって無理に決まっていた。

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