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埋めた骨が呼んでいる Ⅰ
学校は2学期がはじまって、それからすぐのことだった。もうすぐ中間テストがあるとか、それが終わったら合唱コンクールがあるとか、確かそういう話をしていたように思う。分かっていたことだったが、嵐も京義も学校行事にはあまり関心がなさそうだったから、そんなことにわくわくしているのは紅夜だけだったし、ふたりに聞いてもリアクションが悪かったから、そのうち紅夜もその話題をふたりに振るのはやめるだろうと思っていた頃合いだった。京義がホテルに残る選択をしたから、紅夜の日常は思ったよりそう変化がなく、その日も特別なことがない、いつも通りの日だったと思う。今考えてみても。
「薄野ー」
前を歩いていた嵐が、京義の教室に勝手に入っていく背中が見えて、紅夜は慌ててそれを追いかけた。はじめの頃こそ仲があまりよくなかった二人だったが、今は紅夜がいなくても普通に会話をするくらいにはそれなりに仲良くなっているようだった。そのことを京義に確認したら、きっと眉をひそめられて終わるに決まっていたけれど。紅夜にはそういう日常が大切だった、今までそういう日常に恵まれていなかったから。
「帰るぞー」
教室の一番後ろの席で、珍しくHR起きていたのか、目が開いた状態の京義は、呼ばれるとゆっくり振り返った。そのブリーチした髪が少し肌寒くなってきた空気に揺れて、紅夜はそれを見ながら少しだけ心臓の裏側が冷たいような気持ちになるのを押さえることができない、まだ。
「起きてたんだ、めずらし」
「うるせぇな、静かにしろ」
「ごめんな、京義。待たせて」
京義は小さい声で何か言ったようだったが、紅夜はそれを聞き取ることができなかった。側で嵐が大声で何かを捲し立てていたせいかもしれない。少しだけ腰を屈めるようにして、机の横にかかっていた鞄を取り上げると、京義はすたすたと歩きながら、やはり眠いのかあくびをしている。
「オイ、迎えに来たのに俺たち置いて先にいくなよ」
側で嵐がまた大声でそう喚くのに、近くにいる女の子が不快そうに眉をしかめるのを紅夜にはどうすることもできなかった。京義が歩いていく先は勝手に生徒が割れて道ができるのもいつものことだった。教室から出ていく瞬間にふっと振り返って、京義はそこで止まった。
嵐とはそもそも住んでいる区域が反対であったから、そんなに長く一緒に帰るわけでもないが、いつの間にか3人で帰ることは固定になっていた。今日もどうでもいい話をしていたが、ふたりはあまり興味がなさそうで、京義はいつも黙っていた。
「それでなー、その時唯ちゃんが・・・ーーー」
保険医の話をしている時だった。後ろからすうっと音もなく黒塗りの車が近づいてきて、そして急に歩いている3人の側に止まった。何となく、こんなこと前にもあったような気がする、と思った時には運転席の扉が開いた。こんな黒塗りの品のいい国産車は夏衣の車しかしらなかったし、いつも夏衣の運転手をしているのは小牧と呼ばれている無口で小柄なあの人だったから、てっきりそうだろうと思った。きっと側にいた京義も同じように思っただろう、けれどその時そこから出てきたのは全く知らない人間だった。
「相原紅夜さんですか」
「・・・は、い?」
冷たい印象のするその人は、にこりともせずに紅夜と目を合わせると、開口一番まずそう言った。自棄に冷たい印象のする人だと思ったけれど、それ以外のことは何も覚えていない。そう言えば、夏衣の運転手の小牧も同じように表情のない人であり、今考えてみればこれといった特徴のない人だった。名前を聞かずに別れてしまえば、もう二度と会うことができないような。白鳥の家の運転手は、一律そういう規定でもあるのかもしれない。よく見ればそのスーツも白鳥家のものだったが、紅夜がそんなことを知るはずもなかったし、紅夜が知らないことはもちろん、京義も嵐も知る由がない。
「相原紅夜さんですか」
その人は紅夜から視線を反らさないまま、もう一度同じように同じトーンで呟いた。まるでそれが紅夜に聞こえていなかったかのように。
「ってかお前は誰なの」
嵐が近くで彼よりも遥かに大きい声でそう言ったのが聞こえて、紅夜ははっとした。その人はそこではじめて紅夜以外にも近くに人間がいたということを認識したみたいに、ゆっくりと視線を紅夜から外して、一度は嵐のことを視界におさめるようにしたが、すぐに用がないことを察したみたいに、すぐに視線は紅夜のところに戻ってきた。その視線の冷たさにはゾッとしたが、その感覚にはどこか覚えもあった。
「オイ、無視すんなよ」
「やめ、嵐。この人夏衣さんの・・・」
「夏衣さん?夏衣さんの知り合い?」
「ですよね?」
紅夜が見上げながら恐る恐る確認すると、紅夜としっかり目を合わせたままなのに、彼は全くリアクションをしなかった。こんなにも目が合っているのに無視をされることがあるのだと思いながら、紅夜はそれに何と抗議したらいいか分からなかった。
「華井 ちゃん」
不意に声が割り込んできて、紅夜が慌てて声のした方を見ると、後部座席の窓ガラスがゆっくり音を立てて下がっていくところだった。運転手がその声に反応していたところを見ると、彼の名前なのだろうと言うことは分かったが、そこから顔を覗かせたのも、紅夜の全く知らない人間だった。彼はゆったり後部座席のシートにもたれ掛かったまま、紅夜ではなく華井を見ていた。何がおかしいのか口許にわずかに笑みが浮かんでいて、その口角の上げかたはどこか見覚えがあった。
(ナツさんそっくりや)
知っている、知らないけれど、紅夜はこの二人のことをずっと昔から知っているような気がした。それだけで。
「華井ちゃん、高校生ひとり車に乗せられへんの」
「いえ、ただいま・・・」
「足の二三本折ってもええからはよ車に乗せてくれんか、私もそんなには待ってられんで」
にこりと笑うとすっとその目を細めたまま、紅夜の引きつった頬に視線がぶつかって止まる。紅夜は勝手に喉の奥が閉まる音が耳の側で聞こえた気がした。
「冗談やで、自分関西人やろ、もっと笑わんかい」
「・・・え?」
「すべってる空気出さんといてや」
あははと快活に彼が笑うのに合わせて、紅夜はぎこちなく口角を無理矢理引き上げた。夏衣と小牧の関係が絶対的であるみたいに、ここで一番誰に従えばいいのか、一目瞭然だったから。
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