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埋めた骨が呼んでいる Ⅱ
「華井ちゃん、はよしや」
後部座席の男はそう言って、紅夜をちらりと見た後、もう用はないみたいにそれ以上は何も言わずに窓を上げた。黒くスモークがかかった窓ガラスが完全に上がると、それだけでもう中の様子は分からなくなる。紅夜はそこに映った自分の引きつった顔を見ていることしかできなかった。
「相原紅夜さん、車に乗って、一緒に来ていただいてもよろしいですか」
華井の全く色のない声色が、紅夜の左頬に当たって弾ける。明らかに華井のほうが年上だったし、この場所とお互いの立場を鑑みても、うすら寒くなるような敬語だったけれど、それを華井に言っても仕方がないことは分かっていたので、紅夜は黙って聞き流すしかなかった。白鳥の人たちは夏衣や後部座席の男みたいにフランクすぎる人間か、華井や小牧みたいに慇懃無礼な人間しかいない。少なくとも紅夜はこの二種類しか知らなかった。用件など聞いてもきっと話す気がないのだろうと、紅夜は分かっていた。話す気があるならきっと用件から話しているに決まっている。そういえば自分を勝浦の家に迎えに来た白橋だって、あの時の自分にしたら同じようなものだった。話す気がないしきっと、それに拒否権などない。
「オイ、紅夜をどこ連れて行く気なんだよ」
「嵐、ええて」
「いいわけないだろ、夏衣さんの知り合いかなんか知らねぇけど、名前くらい名乗れよ。何なんだよ、お前ら」
「ええから・・・ーーー」
嵐がそんな風に言うことは、至極当然のことだと思ったけれど、社会一般の常識など白鳥が持ち合わせるはずがないことも、紅夜は分かっていた。証拠に華井はそこに棒みたいに立ったまま、嵐のほうを一瞥もしなかったし、それに答える素振りもなかった。そもそもこの運転手は、夏衣の小牧みたいに特別なことは何も知らないただの駒であることを紅夜は分かっていたけれど、それを嵐や京義にどう説明したらいいか分からなかったし、たとえ説明したところで分かってもらえないことも明白だった。
「行きます、行くしか、ないんですよね」
「感謝いたします」
華井は紅夜の言葉にただそう言って、少しだけ頭の角度をつけて礼をしたようだった。相変わらず返事をする気がないので、会話は成り立っていなかったけれど、それを指摘しても仕方がなかった。何となくこの白鳥専用車の助手席には誰も乗っていないと思ったけれど、華井はさっと車の前を回って、後部座席の扉、男が座っているのとは逆側の扉を開けた。
「紅夜、お前、何でついていくんだよ。どう見ても危ねぇだろ」
「大丈夫やから、たぶん、ナツさんの知り合いやし」
「多分?お前だって知らねぇんだろ」
「うん、まぁ」
小さく呟くと嵐が紅夜の腕を掴んで、紅夜は足を止めるしかなかった。
「夏衣さんに連絡しろよ、聞いてからだって遅くねぇだろ」
「・・・うーん」
確かにそうだったけれど、紅夜はちらりと車の向こうで後部座席の扉を開けたまま待っている華井を見やった。華井はそこで扉を押さえた格好のまま、嵐の声が聞こえているはずなのに、ただ黙って立っていた。まるで紅夜がその選択をしないことを分かっているみたいだった。確かに嵐の言うことはなにも間違っていないのだけれど、紅夜はそれがこの場所ではできないことを本能的に分かっていた。かといってそれを嵐には説明できない。腕を掴んだままの嵐の手をそっと解くと、その後ろに立ったまま眠そうに目を擦っている京義に視線を合わせる。
「京義、帰ったらナツさんに言うといて」
「紅夜!」
京義が返事をする前に、もっとも京義の返事なんて当てにできるものではなかったけれど、嵐の声が聞こえてそれを振り払うのがひどく悪人になったみたいで耐えられないと思った。
久しぶりに乗った白鳥専用車の中は静かで、ラジオも音楽もかかっていなかった。紅夜は男の隣に座ったままただ窓の外の景色が変わっていくのを見ていることしかできなかった。
「すいません、もしよかったら、なんですけど」
しばらくの沈黙ののち、紅夜は沈黙を破って隣に座っている男に小さくそう声をかけた。また無視されるかと思ったが、男はふいと紅夜のほうをみて、その深い緑の瞳に自分の姿が映っているのが見えるわけがないのに、見えそうだと思った。
「なに」
「あの、よかったら、どこ行くかだけでも教えてもらえませんか・・・」
「・・・ーーー」
男は紅夜の顔を覗き込むようにして、顔を近付けてきて、紅夜は狭い後部座席の中でできるだけ体を縮こまらせてスペースを確保するしかなかった。返事をしてくれる気がないのは分かったから、そっとしておいてほしい、声をかけるべきではなかったと思いながら、紅夜が目を泳がせていた時だった。
「華井ちゃん」
息がかかるほど近くで紅夜の顔を見ていた男は、紅夜から視線をはずすことなく、急に運転手の名前を呼んだ。華井が返事をする前に、男が紅夜の頬を乱暴に掴んで、思わず声が出るかと思った。思ったよりずっと細くて白い指がぎちぎちと頬に食い込んでくる。
「何でしょうか」
「こいつはほんまに相原紅夜か?夏衣様と一緒に住んでる」
「間違いありません、先程夏衣様のお名前も出されていたので本人かと」
「そうか、夏衣様がお選びになったにしては普通のガキやな。拍子抜けや」
言いながら笑って、男は紅夜の頬から手を放した。耳の側で心臓の音がしている、それが煩くて紅夜は頭痛がするのを自覚するしかなかった。以前誰かに同じことを言われたような気がする。小牧だったか、勝浦だったか忘れたし、どちらもそうだったかもしれない。冷や汗が浮いた額を擦って、紅夜は男が手を離してゆったりと車のシートに体を預けるのをただぼんやりと見ていた。
「それにしても何で夏衣様は東京みたいなところにまだ居られるんや。本家におったらええのに」
「さぁ、夏衣様にもお考えがおありなのだと思いますが」
「こっちまで来るの大変やねん、せめてもうちょっと近いところにはおられんもんかなぁ」
男がべらべらとそうして華井の後頭部にまだ何か話しかけているのを紅夜は遠くで聞きながら、紅夜はこの場の話題が自分から反れたことで、少しだけほっとしていた。すると男はまた急に華井に向けてどうでもいいことを喋るのを止めて、また隣に座る紅夜に視線を戻した。頭が反応する前に、体が先に硬直する。この感覚を紅夜は知っている気がしたが、やはり何だったか思い出せない。
「相原紅夜、手荒なことしてすまんかったなぁ」
「私は白鳩 、白鳥当主様の遣いのもんや」
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