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埋めた骨が呼んでいる Ⅲ
ホテルに戻って談話室の扉を開けると、すでにいい匂いに包まれていて、まだその姿が見えなくても一禾が夕食の準備をしているのがすぐに分かった。大学生のふたりはカリキュラムによっては高校生の自分達よりも遅くホテルを出発するくせに、はやく帰ってくる日もある。京義がホテルに来た頃は、染が大学で女の子に絡まれたとかなんとか言って、急に授業を勝手に切り上げて帰ってくる日も少なくはなかったが、そういえば最近そういうイレギュラーなことは減った気がしている。
「あ、おかえり、京義」
ダイニングテーブルに座って、今日は文庫本を持っていたからきっと小説を読んでいたに違いない、夏衣がいつものようにそう声をかけてきたので、京義は一応その声のするほうを反射的に見ることになった。夏衣は京義と目を合わせるとにっこり笑ってもう一度「おかえり」と言ってきたが、それには返事をせずに、返事をしないことがいつものことだったので、京義は鞄を下ろしてソファーに座った。いつもは大体染がそこに転がっているが、今日はそこにいなかったのできっと自分の部屋に籠って課題でもやっているのだろう。染は要領は悪いが、真面目なのでそういうことは人一倍努力していた。
「あれ、京義ひとりなの?」
京義の座っている場所から少し遠くから一禾の声がして振り返ると、一禾はいつもの紺色のエプロンをしたまま、キッチンからこちらに身を乗り出している。京義は一禾が紅夜の名前を呼んではじめて、紅夜がいないから静かにここまで帰ってこられたことに気がついていた。ふっと一禾から視線をスライドさせて、本をおさえていない手でテーブルの上のクッキーを取っている夏衣を視界に入れる。結局紅夜はあの黒塗りの国産車に乗って行ってしまった。声をかけてきたのが誰なのか、どこに行くのかも何も言わなかったけれど、紅夜はそのことではない別のことに気を取られているようにも見えた。嵐はひどく心配していたけれど、京義は兎に角眠かったから、ふたりのやりとりを聞いていなかったわけではなかったけれど、興味がなかったから嵐がなぜそんなに心配しているのか、京義にはあまり理解できていなかった。そう言えば眠気も帰ってくる間にどこかに影を潜めている。
「なに、また喧嘩でもした?」
「また?」
「紅夜くん置いてきちゃったの」
あははと笑って一禾が何でもないことみたいに言う。一禾に『また』と言われたけれど、京義は紅夜と一度も喧嘩などしたことがないし、思い当たる節など何もなかったが、一禾がそう言うのであれば、一度や二度はもしかしたらそんなことはあったのかもしれない。テーブルで夏衣は知らない顔をして、まるでこちらの会話に興味がないみたいに小説の続きを読んでいる。
「あの子のことだし補習とかじゃないよね」
「帰ってくる途中に車が来て、乗ってった」
「え?どういうこと、なにそれ?誘拐?」
そうやって眉を潜める一禾は、嵐と全く同じ顔をしていて、京義にはその表情の意味はやはり分からない。キッチンにいた一禾は、京義が物騒なことを呟きはじめたのを聞くと、急に血相を変えてぱたぱたとスリッパでフローリングを叩きながらキッチンから談話室に出てくる。その頃には夏衣も知らない顔を止めて、京義のほうを見ていた。なんだかふたりがただ事ではないという視線を自分に向けているのは分かったけれど、そう言えばこんなことは以前にもあった。あの時は思い出せなかったけれど、一度弁護士だという男が下校途中に車に乗って会いに来て、そのまま紅夜を乗せて行ってしまったことがある。その時とどう違うのか、京義には分からなかったし、どうして嵐があんなに焦ったようにしていたのかも分からない。
「どういうこと?誰?」
「知らねぇ。夏衣の知り合いだって言ってたけど、相原は」
そういえばなぜ紅夜は初対面の人間なのに、夏衣の知り合いだと分かったのだろう。相手は一言もそうだともそうじゃないとも言わなかったけれど、紅夜はまるで全てを知っているみたいだった。そしてそれを嵐や自分に説明しても仕方がないことも全部分かっているような。そう考えるとまるで除け者みたいにされている気分で、いい気分ではなかったけれど、それが分かったところで京義は自分がきっと何もしようとしなかったことは変わらないことも分かっている。目の前で一禾がふっと振り返って、慌てたようにそれでいて助けを求めるみたいに夏衣を見る。夏衣はそこでようやく手に持っていた小説をテーブルに置いて、京義のほうを頬を真っ白にして見ていた。何となく京義はその瞬間に、あの二人は夏衣の管轄外であったことを知る。
「ナツの知り合い?車で迎えに来たの?うちに送ってくれるつもりだったのかなぁ、まだ帰ってきてないけど」
「知らねぇ」
そう言えば、弁護士の時は京義がホテルに帰ってきた後に、紅夜は帰ってきた。てっきり車で送ってもらったのかと思ったが、ホテルに到着する少し前から歩いてきたのだと言っていて、何か変だなと思ったけれどそれだけだった。おかしなところはそれくらいだった。
「ねぇナツ、ナツは知ってんの?」
「・・・ーーー」
夏衣は青白い頬のまま、まるで遠くを見るような焦点の合っていない目をしていた。一禾が自分に話しかけているのが分かっているのかいないのか、気づいているのか知らない振りをしているのか、側で見ている京義にもよく分からなかった。ただ夏衣はそこで視線を漂わせたまま黙っていた。しばらく一禾は夏衣の応答を待っていたが、夏衣が何も言わないので仕方なくまた京義に視線を戻した。
「名前とか何か言ってなかった?」
「言ってなかったと思う」
「知らない人の車に乗らないなんて小学生でも分かることなのに・・・」
「さぁ、ふたりいて、ひとりは車から降りてこなかったし」
「何でそういうことになるかなぁ、紅夜くんって賢いのにそういうところあるよね」
一禾が怒ったように焦ったように言う、『そういうところ』の正体は分からなかったけれど、何となく夏衣が何も知らなさそうなところを見ると、夏衣があの二人を派遣したわけではないらしい。尤も夏衣は誰かを寄越さなくてもここで待ってさえいれば、紅夜が帰ってくるのは知っているはずだったが。京義の脳裏に嵐が焦ったように何か言っている映像だけが甦ってきて、もしかしたら紅夜をあの車に乗せたのはまずかったのかもしれないと今更になって思ったら、背筋に嫌な汗が流れた。京義は眠気に蝕まれていた記憶を辿って、紅夜が嵐と何を話していたか、運転手が何を言っていたか思い出そうとしたけれど、残念ながらやはりほとんど思い出せなかった。
「そういえば、運転手のほうは華井って呼ばれてた」
がたんと大きな音がして、一禾が体をぎゅっと縮めるのが見えた。その背景で夏衣が急に立ち上がっている。大きな音は急に椅子を引いた音だと分かったのは、ずっと後になってからだった。
「なに、急に大きな音出さないでよ、びっくりするじゃん」
「ごめん、一禾」
「いや、別にいいんだけど・・・ナツは心辺りないの?」
「ごめんね、俺も出てくる」
返事ではなく、小さくそう呟くと、夏衣は持っていた文庫本をやけに乱暴にテーブルに置くと、そのまま談話室を大股で横切って行って、一禾が止める間もなく、急にどうしたのか尋ねる間もなく、扉の奥に消えていった。余りにも一瞬の出来事だったので、一禾も京義も口を挟む隙間もなかった。ただ夏衣に中途半端に閉められた扉だけが、キイキイと音を立てている。
「・・・何なの」
完全に夏衣が出ていってしまってから、一禾はそう呟いた。
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