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埋めた骨が呼んでいる Ⅴ
京都の一角にそれはひっそりと、しかし他の建物とは全く違う気配を漂わせてそこにあった。勿論、紅夜も白鳥家のことは知っていたし、噂程度に色々なことを聞いたこともあった。ただ夏衣と対峙するまでは、その噂も都市伝説でしかなかった。なぜなら自分とは全く関係のない世界の話だったからだ。その都市伝説は余りにも現実的な質量を保って、紅夜の目の前に広がっていた。表札には『白鳥』と書いてあるが、紅夜には分かった。それはここを訪れる人間に対して書かれたものではないことを。
「疲れたなぁ、ざっと3時間や」
言いながら白鳩は白鳥の門扉に手をかけて、そのフランクな空気のままそれを簡単にがらがらと開いて開けた。整った庭が奥まで広がっている。紅夜には旅行雑誌で見たような日本庭園にも見えたが、思ったより華美ではなかった。それは言葉を選ばないで言えば、むしろ質素にも見えた。
「ようこそ、白鳥本家へ。相原紅夜」
「・・・はぁ」
にやにや笑っている白鳩はそう演技めかして言うと、簡単に白鳥の敷居を跨いで中に入っていった。後ろからの華井の圧を感じながら、紅夜も仕方なく整備された庭に入っていく。しんと静まり返った屋敷までしばらく庭を歩いて横切っている間、誰ともすれ違わなかった。こんなに広い場所なのに、全く人の気配がしなかった。静かすぎる空気が、紅夜の無防備な頬を突いて、それは痛いほどだったけれどなぜか懐かしくもあった。勝浦の家もこんな空気を纏っていたような気がする、確か。
(全然別もんやけどきっと、ここでナツさん生活してたんか)
その夏衣のことなんて、紅夜には想像もできなかったけれど、流石にここまで来たらその事を考えずにはいられなかった。紅夜だって一度も、白鳥の中で生きていた夏衣のことを考えなかったわけではない。どうして本家から離れて東京にひとりで住んでいるのか、白鳥の中で自由を許されているのか、紅夜だってそれが異常なことは少しだけ分かっていた。けれどそれに言及すれば、あそこを簡単に追い出されてしまうのは自分であることも理解していたので、そのことを夏衣には確かめられなかった。そもそも白鳥の話を夏衣の前ですることすら、紅夜にはタブーにも思えた。どうして自分がそう思ったのか分からなかったけれど、白鳥の話をしようとすると夏衣は不自然に目を伏せることが多かったから。
「ただいま戻りました」
ようやく玄関に辿り着くと、白鳩は扉を開けて誰もいない廊下の向こうにそう呼び掛けた。すると音もなく奥から着物を着た女の人がやってきて玄関に膝をつくと白鳩に向かって頭を下げた。
「ご苦労様でございました」
「これ、相原紅夜やから」
白鳩は後ろに立っている紅夜を指差して、ひどくぞんざいにまるで物にするみたいにそう言った。女中がすっと視線を上げる。冷たいほど無表情だった。白鳥の人間は皆揃いも揃って同じような顔をしている。側に立っている華井の表情を思い出しながら、紅夜は考えた。女中がスリッパを用意してくれるのに、何も言わないまま白鳩がそれを当然みたいに履いて廊下を進む。紅夜が分からなくておろおろしていると、女中が無言でスリッパをこちらに向けてくるので断ることもできなかった。
「当主様から聞いております。長旅お疲れさまでした」
「・・・あ、いやぁ」
「当主様はどうされてるんや。すぐに部屋行くか」
「今はあまりご気分が優れないようでして、お休みされております」
「へぇ、出る前は元気そうにされてたけど」
「お部屋をご用意しておりますので、そちらでしばらくお待ちいただいてよろしいですか」
白鳩と喋っていた女中が急に振り返って紅夜にそう言うので、紅夜は慌てて首を縦に振った。ここで断ることなどできなかった。白鳩が面白くなさそうに、それを見ながら「ふーん」と呟いている。
「はようせんと、その内夏衣様が乗り込んでくるで」
「夏衣様に許可をとって来られたのではないのですか」
「まさか。学校から帰る途中に拉致ってきた」
「またご冗談を」
言いながら白鳩は笑っていたけれど、女中は全く表情を崩すことなく辿り着いた部屋の襖を開けた。中には何もなく、ただぽつんと座布団が置いてあるだけだった。
「冗談ちゃうて、なぁ、相原紅夜」
「えっ・・・」
にやにやした顔で白鳩がこちらに話を振ってきたが、そんなことを聞かれても紅夜には答えようがなかった。確かに冗談ではなく、文字通り紅夜もあれは拉致以外の何物でもないと思っていたけれど、まさかそれを口に出すことはできなかった。
「相原様、こちらでお待ちになっていただけますか」
「あ、はい・・・」
「申し訳ありません、後程ご入り用の物はお持ちいたしますので」
女中は軽く頭を下げて、来た道を戻っていった。残された紅夜は、側に立っている白鳩とその後ろを影みたいにぴったりついて歩く華井をちらりと見やった。この二人はどうするつもりなのだろう、一緒にここで待てと言うことなのか、できればいい加減に一人になりたいと思ったけれど、勿論そんなことは口に出しては言えない雰囲気であったし、紅夜にはどうしたらいいのか分からなかった。
「ほな、私らも帰るか」
「そうですね」
今までへらへらしていた癖に、自棄に小さく呟くと白鳩はちらりと紅夜の方を見て、急に目が合って紅夜は肩を震わせた。
「じゃあな、相原紅夜。もう会うことないと思うけど、元気でな」
「失礼いたします」
そう言って白鳩はにこっと笑って、紅夜に向かって手を振った。それがどういう意味なのか、紅夜にはよく分からなかった。そしてその後ろで華井が頭を下げている。紅夜がどうすべきか分からなくて黙っていても、白鳩はあまり関係がないみたいにくるりと背を向けると廊下の向こうに歩いていった。
「ちょ・・・っと、待ってください」
慌てて紅夜はその後ろ姿に声をかけていた。先に華井のほうが振り返って、その氷みたいに冷たい目で紅夜をとらえて、それからその背景で白鳩が振り返った気配がした。
「聞きたいことが、あるんですけど」
「なに、どうしたん」
にこっと笑ってまるで善人みたいに、そんなはずはないのに、そうやって笑うのを紅夜は知っている気がした。夏衣もシリアスな話をする時はいつもこうやってわざと笑ったりして、うまくいかないことがあることをまるで知っているみたいなやり方で狡いと思ったりしたことがあった。きっと拉致みたいにここに連れてこられたことを知ったら、夏衣は心配すると思ったから、京義が上手く伝えてくれることを祈るしかなかったけれど、京義がその役割をしっかり果たしてくれているかどうか、紅夜には確証がなかった。
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