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「康祐」
思考と肉体が一枚膜を隔てた向こう側にある感覚。
これは夢だ。理解が追いつたのは、隣で本来居るはずの無い親友が名を呼んでいたからで、その懐かしさへ戸惑う。
「康祐、どうした…さっきから」
覗き込む、磨いた硝子玉のような目。
そう、この目は本来この男の物だった。でも今は別な人間の物でもある。
別な人間、などと、勝手な呼び方をした自分に絶句する。
どうしても彼を”個”として尊重できないのか。いつだってこの男在りきで彼を見ていたのは自分だった。
それに嫌気が差しての仕打ちだったのか、あれは。
だとしたら受けて然るべき、彼に、遥にとっては、まったく不快な視線を常に向けられて如何に
『――随分深くお休みになられていた様ですが』
鳴り続けれる内線を取れば、嫌味を飽和状態まで含ませた監視役の声が響いた。
寝起きで頭が回らない。御坂は現状把握に努めた後、時計に目を止めて微かに目を見開いた。
『22時のMTGには貴方のスポンサーも来ますよ、必ずご出席ください』
「…いつから私のスケジュール管理までする様になった」
『我々にとってはリスク管理です、また勝手な動きをされては溜まりませ』
話の中途で受話器を置く。
爪先から頭まで重い。特に下半身へ重石を埋め込まれた様な、覚えのある疲労へ昼間の出来事を詳らかに思い出す。
ダストボックスには押し付けられた筈のリストが捨てられていた。
早急に用意して欲しい。との用件で押しかけて来たにも関わらず、もう不要だと言わんばかりに破り捨てるとは。
(AN/PSQ-20×5、DEMEX200×10、TNT…実働隊用か)
せがまれたのは確かに民間では入手が難しいであろう、暗視装置や爆薬の類いだ。
神崎遥は御坂に対し、時折このような”ホームセンターでは買えないリスト”を手土産にやって来た。
リストをシュレッダーへ溶かし、身を屈めてラップトップの電源を立ち上げる。そして当たり前の様にキーを叩き、UNSDHの”倉庫”へと発注を掛けた。
不要と言われても世話を焼くのは御坂の習性の様なもので仕方がない、そして乱暴された件を心では処理出来ぬまま、”子どものおいた”として水に流そうとしていても。
(内線が五月蠅い)
先ほど出てやった筈だ。メールを活用しろとも口を酸っぱくして言った。
業を煮やした御坂が再び受話器を取れば、棘を増した声が早口に別な用件を喋る。
『――電話を勝手に切るな所長!スポンサーが先に会いたいと部屋に向かった、会議に来るのは話が終わってからで構いません。融資交渉の件、精々尽力して下さい』
殊に、展開が急だった。
回線が切れると今度は呼び鈴が鳴り、訪問客が部屋の解錠を迫っていた。
『御坂所長、開けてくれるかな』
インターホン越しに届いたのは、この国では先ず聞かない声だ。
国務長官。スポンサーの中でも五本の指に入る重鎮の来訪へ、監視が慌てて電話してきた訳を知った。
研究所への融資は、監視としても途切れては困る。彼らの目的は、みな御坂の成果物の押収だ。
実際のところ当人がブラックボックス化してしまったお陰で、何も旨味がないまま苛立ちを募らせている訳だが、それでも手を切れない魅力がこの研究には在るのだ。
「…長官、此処に観光名所はありませんよ」
「酷い事を言わんでくれ、私は仕事で来たんだ。サミットとの梯子でクタクタだよまったく」
ドアを開けば確かに草臥れた表情が現れ、御坂はさてどうしたものかと彼自身や背後へ視線を走らせる。
SPは1人。武器は隠せる程度の拳銃。
そもそも御坂は研究成果を全く文書化しておらず、強奪出来るものなど塵一つも無い。
「ご用件は」
「契約の更新時期だからね、改めて商材価値を計りに来たのだよ」
「会議でお話しします、それ以外にご用件は?」
御坂はそこで漸く、服こそ着ているがあれからシャワーも浴びていない現状を思い出した。
ちらりと鏡を盗み見たが、幸い外傷や視覚上での違和感は見当たらない。
「会議と言うが、不老の研究成果を示す為に君の細胞数がどうのと説明されても、素人には何の事やらだ」
「他に客観的に示せる根拠があるのなら」
是非教えて欲しい、言い終える手前に気配が近づいた。
直ぐ隣に体温が移り、明らかにビジネスでは妙な距離で肩を抱かれた。
この展開の不穏さを知っている。
しかし御坂は。御坂康祐という人間は、明確な殺気や敵意が無ければ銃を抜けない。
今、このスポンサーが当人に向けているのは、敵意ではなく”欲”だ。
それはある種、好意にも近く、彼がいつも金縛りにあった様に動けないのはその為で。
「…どうかな、服の下を直に触ってみるというのは」
空気が急に湿り、SPの男まで当てられた様に喉仏を上下させる。
ざらざらした指が大腿を上へと伝い、腰へ届き、シャツの裾を潜り抜けんとする。
「カメラは切ってあるよ」
部屋の隅を見やった御坂を制し、スポンサーは極めて鷹揚に笑んだ。
金を持て余した人間の道楽は時に理解し難く、昔からこうして何が楽しいのか。あの大学で機関創設を目論んだ日から訪れる人間と来たら、対応し難い手の動きでこうして。
「お話し中すみません長官…その、自分は」
「ああ、部屋の外に待機していて構わんよ。職務怠慢などと非難はせん」
「いえ、しかし…念の為ですが、万が一があっては困ります、ので」
SPの目が革張りのソファーへ沈められた身体を凝視する。
抵抗するがどうしようもなく、肌を撫でられ耐え難い吐息が漏れたのを聞いて、いよいよ喉を鳴らして渦中を覗き見ようとしたが。
「外に居たまえ」
膠もなく跳ね退けられた。
年季の入った声色へ黙って背を向ける他なく、SPは悶々としたまま強姦に近い現場を後にする。
会議など何処かに忘れた一室が施錠され、孤島の夜が更けてゆく。
日常茶飯、という訳ではないが、界隈では有名な光景なのだから困る。
誰が吹聴したのか分からないが、あの怜悧な天才が男の牙にはてんで無防備なのだと、まったく対処出来ないのだと、眉唾なトピックが出回っている。
そして興味本位で権力者が食指を伸ばす、実に不当な悪循環が留まる事を知らないのだ。
「ご子息」
「ん?…うっお!」
さしもの神崎ですら虚を突かれて仰け反った。
先までそよ風が吹いていただけの窓枠へ、アサシンの様に青い髪の女が忽然と現れていた。
「何だお前!日本に…人の家に」
「ご子息、サーに何か致しましたね」
「あん?」
青い髪の女…サイファ、本名をミリツァ・トゥジマンと名乗る御坂の副官は、そのホームで不在の主に代わって采配を取っていた筈だ。
それが態々自分の家に文句を付けに来るとは、よっぽど顕著な違和感があったに違いない。
「何かはしたけど」
「ふうん、貴殿の喉元を…私は掻き切ってしまうかもしれませんよ。今手元にナイフがあるので、あくまでも不注意としてね」
これは面倒な事になった。
この副官は完全に私的な思慕を上司に抱いているため、神崎が犯した内容を知れば激高して殺しに来ても可笑しく無かった。
つい目の端で退路を確認しながら、神崎は窮地を凌ぐ方法を模索する。
ただその逡巡を知ってか知らずか、彼女は盛大な溜息を吐くに留まり、剣呑な目で苛々と膝を叩いていた。
「…正直腹は立ちますが、ちんけな愚行などどうでも良いのですよ。元々あの人は底なしに頭が悪く、襲われる事を敵意と認識できないのです」
「ん?お前待て、知ってんのか?アイツが裏で…」
「スポンサーに好き放題されている件ですか?それ程鈍間な人間でも気付くでしょう、増して我々が一番近くに居たのですから」
知った上でその態度。アサルトライフルを手に権力者だろうが皆殺しにしそうな女が、これほど達観した面で傍観を貫く意味が分からない。
キレ散らかすかと思った。神崎の視線の意図を悟り、サイファの瞳孔がするすると広がり始める。
「サーが自分で選択した術なら、口は出しません。そして雑魚の歯形など取るに足らない、最後に私の元に居ればそれで良いのです」
「…ラ〇ウかお前」
「あの人は最後には私とラザルの下へ帰ります。大昔ですがそういう契約をして、我々の物であると確約を貰いましたので」
大昔、であるなら2人が未だ幼い時分だろう。
子供にせがまれて口約束した程度の話ではと呆れたが、副官は神崎を嘲る様に嗤い、奥へ鋭い犬歯を覗かせた。
「そう言った口約束が一番効くのですよ。貴殿がせっかく初めての恋をしたのに気の毒ですが、ラザルを殺せば私の物です」
「まあ…火遊びだよ今は」
「入院する前に更生する事ですね」
吐き捨てるが否や後ろへ飛び、副官の姿は瞬く間に曇天の空へと消え失せる。
まるで白昼夢に殴られた心地だ。
鳥が鳴くだけの平和を確認したのち、神崎は手持ち無沙汰にサイドテーブルの携帯を手繰り寄せた。
(ん?)
配送業者から連絡が来ていた。
暗視装置、ブレード、etc。ゴミ箱へ捨てた筈のリストの納品書が丁寧に漏れなく送り付けられ、おまけに支払いまで済まされていた。
「…要らんと言ったのに」
確かに必要ではあったが、あんなものは研究所へ出向く口実である。
”忙しいのに来てくれて有難うね”
以前用件も無しに立ち寄った時分、あの大人は実にあの大人らしい挨拶を寄越した。
”お父さんも喜ぶよ”
しかし、付け足した一言が余計だった。
その蛇足が無ければ、別に今でもぶらりと気の赴くまま、口実など持たずとも会いに行ったものを。
「今でも有り難うなんて抜かすのかね」
あれだけ無体を強いられて。尊厳も無く蹂躙されて。
平静な面で神崎が現れたら、当人は何と言って出迎えるのだろうか。
逆立ちしても罵れなどしないだろう。強かった筈の大人が俯き、細い肩が震えるさまが浮かぶ。神崎は携帯を早々と鞄へ放り投げるや、徐に立ち上がって無造作に落ちていた外套を取り上げていた。
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