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神崎遥という人間を一字で表すならば、柔。 柔は強かで、剛を制す。 掴みどころがなく天候の様に有為転変と流れ、知らない間に目的だけは上手く掠め取ってゆく。 人間性も行動も性格も七変化。受け止めない故に傷付かず、執着して追い回したりもしない。 そう、追い回したり。 「納品分の代金を支払いに来たって、口座振り込みで良かったんじゃないの?」 「お前の口座なんざ知る訳ないだろ」 距離が20cmもない。壁に自分を追いやって覗き込む相手の詰問へ、御坂はつい枠外に視線をやって顔を逸らした。 「…あるじゃない、日本にも」 「あれは俺の口座だよ、自分で自分に還元してどうすんだ。お前が時折金振り込んでるのも知ってるが、人が幾ら稼いでると思って」 薄い色の目が間近でじろじろ見てくる上、普段は先ず聞かない速さで矢継ぎ早に言葉を投げつけてくる。 真の目的など知った事ではないが。あの一件から数日、素知らぬ顔で尋ねて来た相手の入室を許可したことを、御坂は現在心底後悔していた。 「お父さんの件で会社の被害が大変だったでしょ、それくらい支援しても良いじゃない」 「出たな”お父さんの件”、お前はそれを俺に言わないと気が済まんのか?」 「…言い方が悪かったなら変えるけど、あれは泳がせていた自覚があるから、僕の責務としての慰謝…」 顔の直ぐ真横へ手が叩き付けられた。話を遮り、御坂ですら真意の読めぬ瞳が恐ろしく不動に見ていた。 この目は良くないな。御坂も他人を黙らせる目つきを自覚しているが、神崎の物はもっと別なカオスを抱いている。 増して、彼は特に面倒な威力がある。 父親の件を言わないと気が済まない、などその通りだ。御坂はその瞳を見る度喜びと痛みを呼び起こされ、前にも後ろにも進めず雁字搦めになるのだから。 「俺が先日お前にした事の意味が分かるか」 その件は触れないつもりだったのに。 態々会いに来た時点で矢張りと言うべきか、神崎はこの間の続きを蒸し返しに来たらしいのだ。 「何の話?」 「お前が目を合わせられない原因の話」 「意味って言われてもね、ないでしょ…君は気紛れで動くんだから」 今度は首を掴まれた。生易しい力加減ながら、確かに生殺与奪の権を握っている。 その長い指が上へ伝い、細い顎に掛かり、上向かせる。 神崎遥は怒らない。少なくとも本気で憤っている場面など、御坂と言えども見た例はない。 ならば、今のこの威圧の源は何だろう。 「じゃあ一生目を合わせないつもりか?」 そんな事はない。自分はこの子を愛おしく思っているし、彼の友人として望まれなくとも生涯目に掛けると決めていた。 反論の意図を込めて視線をぶつけたが、硝子の瞳の中へ、いつもはない焔の燻りを見つけ、背筋を冷たいものがするりと流れ落ちる。 「俺が」 指が煙みたいに服の隙間から、肌へと纏わりついた。 「情愛を含めてお前を見たら」 十年以上の付き合いで聞いた例もない声を出す。目前の喉ぼとけが、成熟した大人の男である旨を嫌と言うほど見せつけていた。 「益々親父に似るから、か?」 からん、と握っていた筈の万年筆が床へ落ちた。 それで堰が切れた様に、容赦なく伸びた手が痩身を捕まえて抱き竦めた。 噛み付かれるかと踏んでいた。想定外の動きに困惑し、御坂は捉えられた腕の中で身動ぎも出来ずに立ち竦む。 情愛を含めて等と言う、今まで人付き合いに関して淡泊の極みだった男が。増して自分には我が儘こそ言え、手を差し伸べる度に煩わしそうな顔をしていた子供が。 「何なんだろうなアイツ、いい加減俺に迷惑掛け過ぎだろうよ」 それは本当にそうだ。 バート・ディーフェンベーカーへの私怨、それに端を発した会社襲撃、あれほど巨大な面倒ごとに巻き込まれていれば、いくら故人であろうと文句は言いたくなる。 代わってごめんね、と謝りそうになったが、今神崎が苦言を呈しているのはそれらの件でない。 「…ハル、ちょっと離してくれる」 「指が震えてるぞ、この間のこと思い出したか?」 「何がしたいの」 最後は俯きながらも語調が強まった。 気紛れで、暇を持て余してこういう御ふざけを挟むから性質が悪い。しかし、仮に御ふざけでないとしたらもっと性質が悪い。 「キスさせろ」 「ん?」 真正面で追い詰めて何を言うかと思えば、余りに些細な要求へ思わず上を向く。 間髪容れず噛み付かれたものの、性急に舌が押し入る感覚もない。 甘く身体を捕まえ、体温で互いの唇を溶かすみたく丁寧に触れているだけで、くすぐったさに手があちらこちら行き倦ねて彷徨う。 何がしたいのだろう。大きな手がするする背中へ、腰へと降り、またシャツを引き抜くつもりかと身構えるも、結局身を支えられただけで他意が無い。 唇は掌の次に感覚神経が発達している。故に噛まれ、吸われ、時折熱い舌が掠めるだけで、木の根元へ降りるように全身の神経が震える。 苦しい、と目で訴えれば離された。 暫く見詰め、何が来るかと思えば恰も大切なものを扱う所作で抱き締められた。 温かい。奇妙な時間。どうして恋人へ触れるみたく、先から乱暴をやめて胸焼けしそうな空気を紡いでいるか分からない。 今日の神崎遥は可笑しい。先日も様子が可笑しかったが、今日は輪を掛けて可笑しい。 「…お前の所のガキが昨日、俺のマンションの窓際へ不法侵入してきた」 所用で日本に来ていたサイファの顔が浮かぶ。 突然転換した話題を訝しむも、髪を掬う手つきは相変わらず柔らかかった。 「それで忠告された、俺は何やら恋をしているんだと」 変なことを…するものだ。サイファも。態々高層マンションの最上階まで飛び移って、何処をソースにしたかも分からない主観を押し付けに行くなど。 確かにここ最近疲れは溜まっていたが、余り表に出さないよう気を付けていたのに。 野生の勘ばかり鋭い彼女は、時折そのフィジカルも味方に付け、一足飛びに場を掻き回してしまう。 「君が?誰に?」 「俺も半信半疑だったが。今日お前に会いに来てみたら、あのシェイクスピアの長ったらしい表現もまあ蛇足じゃないなと思える様になったよ」 突然、回路がひとつ切り替わったみたいに態度が変わってしまったのだ。 謀略を怪しむのも無理はない。けれど、未だ目的が見えないと言うか、この先の展開を数百通り考えようが、相手にとってのメリットが見えない。 「…それでどうしたいの?」 「結論を急ぐなよ。でもまあ、そうだな、やっと煩わしい父親を見返す当てが出来たと言うか」 ああ、成る程。盲点だった。 「お前、俺が一番になっても恨むなよ」 誰に向けたとも分からない台詞は、実のところ双方に言ったのだろう。 神崎遥が御坂康祐の心を占めれば、その分バートという男のメモリは削られてしまう。 父親を越えたいのだ、要は。 そんな本能が備わっていたのだな、と微笑ましく緩む反面、それがどれほど無慈悲な行為か理解しているのだろうか。 「私からバートを取り上げた後はどうするの」 「逆だ逆、アイツからお前を取り上げるんだよ」 「彼は何も私を縛り付けてないよ。あとね、お前のそれは恋ではなく、憂さ晴らしと言うんだ」 難しい言葉を使うなと文句を挟まれたが、良くない楽しみを見つけて溺れる身勝手さを表現するならば、適当だった。 「憂さ晴らしね。まあ何でもいいけど、取り敢えず俺はこれから用もなく来るから。嬉しいんだろ?」 「…ん?…んん」 珍しく返答に詰まって口を噤んだ。今日も人の宅で勝手に煙草を取り出す相手を咎められない。 結局何があろうと、御坂は神崎を無下にできない。 それが双方心地良くも、虚しくもある。不毛だ。この間柄を、どうにかする時が来たのかもしれない。

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