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用もなく来るから。
そう宣告した言葉の通り、以後、神崎遥は一つの頼み事も持たず研究所を訪れた。
先日舞い込んだ面倒臭い仕事のこと、最近入社した従順な部下のこと、マンションに猫が居ついて同居人がこっそり餌をやっていること。
他愛のない話をソファーに凭れ掛かって続けるのを見れば、過去へ失った筈の当たり障りない幸せが蘇った気がした。
目が遠くなる。相槌を止めた御坂を振り返り、機敏に察した相手は席を立って文句を言いにやって来た。
「ほら、また余所見してるぞお前」
"憂さ晴らしだ”等と、我ながら酷い言葉を掛けたと思う。
また対象も分からぬ謝罪を吐こうとするが、背を曲げて覗き込んだ神崎の左手が遮り襟首を這っていた。
「しかも何だこの噛み痕」
布を捲って指摘する。理解の追いついた御坂は、手を払うように痕跡を隠した。
人へ会う前に気付けばよかった。自分に無頓着だからこうなると、神崎は罪人を詰問するように襟を抉じ開ける。
「前もあったけど、お前のスポンサーって枕にも独占欲出してくんの?」
「…仕事に口出すなら帰ってくれない」
「言ったな変態、無理矢理ヤられてる癖に。偉そうに何が仕事だよ」
窓硝子を割って、無遠慮に部屋の中へ手を伸ばしてくる。
そして隠した柔らかい部分を尖った刃物で突くや、致命傷を残して去って行く。
神崎は用もなく来る、と言った割に、今の様に精神的にも肉体的にも御坂を追い詰めに現れる。恐ろしいが、愛情を建前にされては追い払えない。歪だろうが、関心を無下になど出来ない。
「お前ってほんと馬鹿だな」
身長同様大きな手が鎖骨を滑り、シャツの隙間から何の躊躇もなく胸へ滑り落ちる。
当前の流れみたく性行為に至ろうとする。可笑しな手を掴み、阻もうとしたが、ずるずると下る手は胸の頂上へ届き、勝手に蕾を摩り始めた。
「直ぐ大人しくなるし」
指先で摘ままれた瞬間、散々に色事で嬲られた身体が火照りだした。腰へきて、抵抗も含めて神崎の袖口を明後日へ引っ手繰ろうとする。
大人しくなどしていない、そっちが力で抑え付けるだけで。おまけに過去に誰かしらが、自分の望まぬ方角に身体を書き換えてしまっただけで。
「そういう態度だから調子に乗られるんだよ、一発いかせりゃ勝てるだろ」
言葉の品はどうかと思うが正論かもしれない。御坂が言い難い顔でじっと睨めば、珍しい間を開けた神崎が言い訳のように付け足した。
「…いや、別にお前に汚いモノを握れとかそういう話じゃなく」
淀んで言葉を濁す。そんな態度を目にするとは思わず、御坂は虚を突かれて頭上の存在を眺めた。
視線がかち合う。神崎はやっと自分へ向いた興味へ黙り、もう言葉を交わす間すら惜しんで塞ぐみたく口付けた。
神崎は今までの人生、こんな前戯の仕方はしなかった。否、そもそもこれを前戯などと思えなかった。
セックスの前振りなどでは無く、一分一秒を目的として温度の低い体へ触れる行為。
「御坂」
相手の呼吸が怪しくなってきた頃、先日みたく机上へ寝かせ、西日が差す室内が一層と濃くなる。
「俺にしとけ」
逆光で相貌が陰り、水の張った瞳だけが鈍く照明を弾いた。
自由を奪い、乗り上げた体制だろうが、神崎は言葉とともに一層優しく撫で、愛おしんで、怯える身体を解そうとする。
しかしそれでも、シャツを剥がれ薄い胸が露わになった段階でも、未だ
「…しない」
急に発音の輪郭がシャープになった。
神崎が水を掛けられた心地で瞬けば、俄かに毅然とした大人は光を遮り、砕けようのないスタンスを突き付けていた。
「悪いけど、私はバート以外に生涯抱いて欲しいなんて思わない」
排他的な鋭さ。けれど刃先に男の血が纏わりつき、実に不快なぬめりを伴う。
ご苦労な執着だ、と鼻で嗤うことも出来た。そのまま我関せず押し倒すことも、力で表面上の反抗だけでも折ってやることも。
「相変わらず病んでんな、お前」
「有り難う、君と違って誰にも迷惑はかけてないよ」
「いや、お前の問題は多分それだ」
急に挙動を変えた神崎の指がこちらを向き、びしりと心臓を刺した。
「お前が他人にバート・ディーフェンベーカーの話をしない点だ、自分で只管掻き混ぜて煮込み過ぎて黒魔術みたいにしやがって」
「黒魔術ね…」
「分かった聞いてやる。正直微塵も興味はないが、今日は聞いてやるから話してみろ」
「ん?」
一字一句拾っている筈の御坂がつい聞き返す。
目前で今まで自分を追い詰めていた青年は、突然何の提案をしているのだろう。
先までの湿った空気も一気に追い払い、傍らの椅子を引き寄せて座った神崎は相変わらず傍若無人に、然れど寛容さも持って相手に着席を促した。
「アイツ幾つだっけ…?いやお前も幾つか知らんけど、何歳の時に会ったんだよ」
「…大学に着任して、だから…バートは28歳だったかな」
「お前は?」
何故一転して昔話を始める姿勢になったのか。神崎の言わんとする事は何となく分かりつつも、今日もらしくない行動へ惑いながらワークチェアへ掛け直す。
「11差があるから…17歳くらいの時かな」
「…公称年齢がな?」
「公称も何もそのままだよ、言ってなかった?」
今度は神崎が面食らった。
現実にSFへ出会したような形相で、対岸の理解不能な生命体を睨み付ける。
「いや…さすがに…嘘を吐け、算盤が合わんだろ」
「君に会った頃は二十過ぎてた、確か」
「お前の実家 の創設は…?」
「未成年の時。所謂…経済の流れを握っていたフィクサーに協力を取り付けられた、運良くね。実質的な創設者は彼らだよ」
「…俺をクソ餓鬼扱いしてたくせに、お前もガキだったって事か?」
「そんなに子供扱いした?ごめんね、お父さ…バートの話を良く聞いてたからかもね」
色々衝撃的に過ぎる。そもそも聞いておいて話して良いのか、と危ぶんだが、確かに今この部屋の監視カメラは切られている。
なら現在34という事になる。自分とたった7つの差。
実感として抱くこの大人との壁は、もっと半端なく高いものだと思っていた。
「そりゃ…お前、色んな大人に脚開くわな」
「言い方をもう少し考えてくれない」
「どう言ったらマシになるんだよ。で?クソ親父は?まさか未成年に手出したのか?」
「バートには叱られた。潔癖な人間だったからね」
ああ、想像がつく。人柄を詳しく知らない自分であれど想像がつく。
世間の思うバート・ディーフェンベーカーとは、かの英雄とはそういう白さだった。
御坂はそういう人種を甚く気に入るだろう。
萱島だとか、本郷だとか。子どもみたいな純真さを捨てきれない人間へ、御坂は殊更に優しく接し、慈愛すら与える。
「まあ、彼も家庭に構えず仕事に入れ込んでいた負い目があったから…初めは共同研究者としても距離を測りかねて、大した口出しはしてこなかった」
「お前の本業もバレてたのか?」
「なし崩し的にね」
嚆矢を聞いて、何が今ここまで執着する原因をつくったのだろうな、と思った。
矢張り死んだからか。死人は最強。神崎はつい匙を投げかけたが、久方振りに記憶を紐解いた相手の方は、想定通り緊張が解れていた。
「バートは…家庭関係以外、全てが人の憧れを具現化したような存在だった、例えば…そうだね、アメリカの大学って大抵フットボール部が一番の花形じゃない?」
「まあな」
「常にその中心に居る様な人間だったよ、集団の頂点、それを苦としないような」
ぼんやり朧気だった父親の輪郭が掴めてきた。矢張りというか、余り自分は好きなタイプの人間でなく、ふーんと冷えた相槌を打ちそうになる。
「何で好きになったんだ?」
そして、さっさ核心的な所を問うてしまった。
御坂は逡巡し、再開していた業務を中断し、極めて何てことない風に答えを告げる。
「彼が最初に私のテリトリーに入って来たからだよ」
それ以上でも、それ以下でもない。
想定より180°逸れた淡泊な回答へ、神崎は背凭れに頬杖を突いて追及を始めた。
「最初に?パーソナルスペースに侵入したからか?それだけで?」
「そうだよ、そして勝手に死んだから」
やっぱり死んだ所為か。納得いかず眉を顰めるも、相手は妙にすっきりした顔でモニタリングへと戻ってしまった。
「なら、俺が初めだったら俺を好きになってたか?」
「そうかもね」
要は寂しがりなの心の隙間へ、初めて奴が嵌ってしまっただけか。結果論の、何とも御坂らしく理屈的で夢の無い告白。
「けど、お前がここまで私に拘るのは、お父さんのことがあった故だと思うよ」
卵が先か、鶏が先かみたいな話になる。言われてみれば確かに、10代の頃あの大学で相対した御坂康祐という大人に、自分は標準以上の情を抱いていただろうか。
流石に周囲の雑多な人間とは区別していたと思う。
付き合いの深度で言えば、当時から本郷に続いて2番目には位置していただろう。
それから日本に帰って、会社を興して。疎遠になったかと思えば、御坂はまた面倒な柵を増やして目の前へと現れた。
自分は柵を増やしておきながら、相も変わらず神崎らのことばかり心配し、得体の知れない背後を隠して。
「…まあ仕方ない、最初はくれてやるか」
妥協の台詞と共に立ち上がる。
御坂が不思議そうに長身を見上げるや、漸く帰り支度を始めながら脅しのような視線を戻して来る。
「ただし最後は俺が貰うぞ、ずっと会いに来たら必然そうなるからな」
底抜けの前向きさ。其処はこの親子はそっくり似ていた。
前者は医療と言う専門分野に、後者は商人の才覚に費やされているだけで。非難することも出来ず、書類を手中へくしゃりと丸めた御坂は賛辞を吐いた。
「…お前は賢いね」
何に勝った気なのか、今日は早々と出口へ向けて歩き出した神崎が「ざまあみろ」と暴言を寄越す。
「この先の方が長いぞ、せいぜい今の内に過去を想ってろ」
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