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不味い、と懸念していた事態が起きていた。 マチェット…――本名をラザル・ドラプシンと言う――青年は己の人生を振り返り、優に2/3を超える日々を共にした上司を思う。 御坂康祐。先ほど上司と紹介したが、自分とミリツァにとってこの大人は親と呼んで相違ない。衣食住をずっと共にした訳では無いが、行く宛の無い戦争孤児である2人を拾い、何不自由ない暮らしを与え、立派な社会人へ育ててくれた。 恩義というより、忠誠に近い。ラザルらは御坂が白いと言えば白、黒いと言えば黒と迎合したし、最後は命をとしても護る覚悟があった。それ程の、世界のすべてと言って過言でない存在になり、同時にその能力へ心酔していた。 ある日、その偉大な養親から一件の訃報を耳にした。 ラザルとミリツァも良く出入りしていた大学の研究室にて、養親と共同研究をしていた男…バート・ディーフェンベーカーが亡くなったのだという。 その頃には自分もミドルスクールに上がった齢で、生死やそれに伴う悲哀も勿論理解していた。故に親友だと聞いていた養親を子どもながら心配し、葬儀やその他諸々の間も白い彼の顔を伺い見たが、大丈夫だよと頭を撫でられただけで、彼は何ら感傷を引き摺る事無くラザルらや仕事へ集中して見せた。 亡くなった医師とは殆ど毎日顔を合わせていた筈なのに。 不自然なくらいに平静とする彼に、ラザルは黙ってミリツァと目配せをしていた。これは、余り掘り返さない方が良い案件だと。 しかしそれが災いとなったのだろうか。 今朝の養親の様子を思い、聡明な青年は眉間に深々と皺を刻む。 雨を気にする日が多くなった為、精神状態が良くないのだろうと気に掛けてはいた。そして極めつけに、あのやり取りだ。 「サー、貴方の個室ですが戸締りはきちんとして頂かないと」 御坂の執務室は、彼が来客の為にオートロックを撤去してしまった。故に逐一内側からも外側からも施錠が必要で、大概彼は内側に居る際に鍵を掛けないのだった。 「ああ、でも帰って来た時に面倒だろうから」 「…帰って来た時?」 嫌な予感がしながらも、つい誰の事かとラザルは問うた。そして恐れていた死人の名前を言われた時には、頭から冷水を浴びて凍り付いていた。 書面を見詰める御坂の顔はまるで嘘がない。本当に死人が帰って来るものと思って、部屋の鍵を閉めずに待っている。 どうして今になって、彼の闇がこじ開けられてしまったのだろう。必死に考えた結果、最近彼を掻き回している邪魔な存在を思い起こした。 神崎遥。バート・ディーフェンベーカーの息子。 亡くなった親友と同じ瞳を持つ男が揺さぶれば、きっと傷を押し広げるのは容易い。 「――お前ら毎度毎度何処から降って来るんだよ!」 場を移して、東京郊外の歩道。 駐車場へ向かっていた神崎の眼前へ俄かに影がフリーフォールし、烏の襲来かと思えば立ち上がったのは赤い髪の青年だった。 マンション最上階へ来たもう1人といい、御坂は子供を伊賀にでも預けていたのだろうか。 つい身構えて上着へ手を伸ばしかける此方を他所に、マチェーテは”対神崎”の目で肩の埃を払う。 「急を要する質問があったので」 「緑色のアプリのID教えてやろうか?」 「繋がりたくはないので。それでご子息、我がサーに到頭何をしたんですか?」 ああ、まあ当然その件である。寧ろその他に御坂の子供が会いに来る用事など無い。 神崎は辺りを見回してラザルを手招き、少々死角になった路地へ入るや端的に供述した。 「迫った」 「…迫り方が…貴方、バート医師の件をしつこく抉ったんでしょ」 「俺じゃなくてお前らの親だよ、しつこいの」 「サーは残念ながらそう言うレベルでは無くて…建前でやり過ごしていたのに、貴方のお陰ですっかり剥がれてしまいました」 良かったな、と言い掛けて流石に口を噤んだ。そんな軽口を言おうものなら即刻で撃たれ、頭と心臓と鳩尾に一つずつ穴を貰いそうであった。 「貴方が晒した通り、サーはバート医師の死を受け入れていません」 そう、神崎が先日追い詰めた件だ。自覚はあった。しかし早々とやって来てくれてこの青年と来たら、一体アメリカからどれだけ密に様子を伺いに来ているやら。 「しかし、俺とサイファはそれで良いと思ってました。来なかろうが、待ちたいならそれで構わないと」 「ふうん、アイツ墓まで作ってたのにな」 「あれは居ない間の代わりみたいな感覚で置いたんでしょう、知りませんが」 言い草からして、結構この2人も手は焼いているようだ。手を焼いていると言うか、どうして良いか拱いているのかもしれないが。 神崎はこの青年が何を言いに来たのか察し、不動の意志で相対した。付随して目前の赤い目は細まり、じわじわと不穏さを纏う。 「言っとくけど、俺のカウンセリングはいつも手荒な方向でやってるから」 「確かに御社には前例が沢山あってお見事ですが、これ以上サーを攻撃しても壊れるだけですよ」 「いいやラザルーー!」 構えてはいたが、やっぱりもう一人も降って来た。 立て続けに至近距離へ人間が飛び降りてくる恐怖へ、さしもの神崎ですら退いて距離を取る。 「ーー少し考えろ、いい加減私もサーのメンヘラには匙を投げかけていた所だ」 「居たのかサイファ」 「私の視力を舐めるな、ご子息の火遊びが大火事を招いたそうだが、確かに一回建物自体燃やした方が良いのかもしれん」 御坂のもう一人の拾い子、ミリツァ・トゥジマン。先日マンションの最上階まで登って来た女が、今日は明らかに10メートル超の建物の上から降って来た。 しかも何やら養親を害する者へ、肯定的な台詞を吐いている。何の思惑かと思ったが、確かにこの女の目的はいつも最終地点であり、其処に行き着く過程は一切頓着しないのを思い出す。 「更地にしてどうすんだ」 「止む無しだ。いずれ待ち兼ねて、自ら会いに三途の川を泳ぐよりマシだろう」 「ああ」 青年が理解して顔を顰める。 自死の可能性を指摘しているらしいが、前例があるかの様な口ぶりから、想定以上に病巣は根深い様だ。 「という訳です、ご子息。サーが拗らせて自殺する前に、貴方の御父上を葬って下さい」 「逐一物騒な表現だな」 「残念ながら、未だこの世界に彼が生きているというのも強ち妄言でない」 サイファの物言いへ苦言を呈していた神崎が止まる。先般の御坂の発言。今の副官の発言。混ぜて嚙み砕いてみれば矢張り、また父親絡みの面倒が起きたとしか思えない。 「…うちの父親が何か?」 「新興宗教です、ご子息。御父上を担いだ新興宗教と諸々が暴走しているのです」 「何?」 「仕留めろ…と言った手前何ですが、貴方は我々の保護下に入って頂きたい、当分表には姿を現さずに」 情報を搔い摘み過ぎて訳が分からない。分からないながら、有無を言わせぬ2人が仕事の顔になり、神崎はこんな道端で面倒なと眉を顰めた。 「やなこった、相変わらず偉そうな役人め」 「貴方に危険が迫っています、神崎遥。我々も最善を尽くしますが、万が一があってはサーが今度こそ廃人になってしまう」 危険が迫っている、と言われた当人は考え込む。ならば尚更離れたいものだが、そもそも新興宗教とは。 恐らくコアは我が父のノーベル賞ものの偉業…中東ウイルスの特効薬を開発した功績だろうが、そこから息子の自分が狙われる経緯を想像するに。 「”宗教”の利用者が現れた?」 「…流石、頭だけは良く回る。恐らく近日中に貴方へ接触を図って来るでしょう。我々が代行して対応しますので、貴方は精々息を潜めて」 「何時までもそんな生温いやり方で通用すると思うのか?」 どうにか理性を湛えていたサイファの目が毛色を変える。怒りでは無いが、不用意な発言ひとつすれば殺してきそうな圧だった。 「何で御坂の為に、俺が庇護下に入らきゃならないんだ」 「仰る事は良く分かりますよご子息。私もあの人の大事なものに鍵を掛けて護りたがる癖にはうんざりしています。我々には等しく死ぬ権利がある。自らの生を使う権利がある。サーはそれを許さない点に関して異常に傲慢です」 「お前、アイツのこと嫌いなの?」 「縊り殺したいほど愛していますよ」 目前の女がバキバキと指を鳴らす。こいつに関しては檻に収容した方が良いのではと危ぶんだが、発言の趣旨は共感できるものだった。 何故なんでもかんでもあの大人に気に掛けられ、心を痛められなければならないのか。護りたい対象は増える一方なのに手放さない故、常に辛気臭い顔をしている、馬鹿な大人。 「御坂の枠を壊したいなら、多少リスキーに行こうぜ」 「…護衛は付けるなと?」 「俺のカウンセリングはいつも手荒な方向でやってるって言ったろ」 存外に考えの近いサイファは納得し、常識寄りなマチェーテの側が嫌な顔をしている。 神崎を危険に晒す事と、御坂の目が覚める事は果たして結びつくのか。一歩間違えれば底なし沼に落ちそうな賭けだが、青年は眉を顰めて締め括りだけを寄越した。 「また連絡します」 その一言を契機に、2人は目配せも無く地面を蹴って頭上の木へ飛び移る。 そして瞬きの間に隣の屋根へ降りるや、影も形もなく今日の平和な、ありふれた景色へと消え去って行った。 神崎は嘆息した。また面倒臭い、かの肉親はどれだけ此方に迷惑を掛けるのかと呆れたが、これは良い機会かもしれないとも考え直した。 過去を追っている間に、滑り落ちる今という現実。そして滑り落ちれば過去になり、また悔いて追い掛ける無限ループ。その恐ろしく愚かな輪へ終止符を打つ、よい機会に。

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