13 / 17
12
1992年、初夏。
広葉樹の緑鮮やかな中庭で、バート・ディーフェンベーカーは終の拠り所となる相棒を見つける。
一昨年前、論文を読みファンレターを書いた相手。その後、知人の媒介を通じてメールを交わし、気付けば顔も見ぬまま共同研究の約束を交わしていた相手。
御坂康祐。齢17の青年は陽を避けて木陰へ佇み、現れた気配へ気付いて振り返る。
(若い)
年は聞いていた。しかし目の当たりすると想像以上に春秋に富んでいた。
けれども注視すればするほど、メールの文面に酷似した涼しさ、聡明さが透けて見え、瞳の底知れなさは未知の海溝すら思わせる。
「あっ、その」
自分の口から間抜けな音が漏れる。
共同研究の約束を取り付けたとは言え、今まで交わしたのは当たり障り無いやり取りだけだ。
若い、所謂”神童”というのは、抜身の剣である。
切れ味を恐れて距離を測りかねていると、彼は一寸不思議そうに止まり、柔らかく唇で弧を描いていた。
「こんにちはMr.、案内しましょうか」
「え?案内?」
「見ない顔です、道に迷われたのでは」
青年は手にしていたモバイルを仕舞い、見ず知らずの人間を助けようと歩み寄る。
身構えていた大人は呆気に取られた。近づく人形の様な相貌。淡い色素、凡そ現実味の薄い姿也を前に、呆けて両眼をパチパチと瞬く。
「有り難う、君は良い奴だな」
「大袈裟な」
「いやー、本当…話しやすそうで安心したよ。挨拶が遅くなったけど、私はバート・ディーフェンベーカー。君のお眼鏡にかなった男だ、よろしく」
握手の手を差し出せば、青年はじっと探る様に見詰めて来た。精密機器にスキャンされている心地でたじろぐ。
ただそれも束の間で、相手は直ぐに右手を握り返すと、共同研究者からの交流へ応じていた。
「こちらこそ御擢用ありがとう御座います、お陰でやっかみの相手が大変でした」
「やっかみ?俺はそんなに注目されているのかな?こんな最難関大学で…何だか照れるな」
「照れる?…フフ」
青年の笑みは、野暮ったい反応を舐めたもので無かった。
本当に、非常に不思議な話だが、彼は遥か年上の顔をして浮足立つ自分を見守っていた。
恐怖なのか、愉悦なのか。未知の怪物へ背中を撫ぜられた感覚で、バートはハイスクールの齢の姿から後退る。
「…君は前世の記憶がある?」
「?オカルトを信ずるかという話ですか?」
「いや…だって君、明らかに人生3周はしてるだろう」
鋭い印象の瞳が上向き、今度はまあるく幼くなる。
クールに見えて、実は注視すればころころ色を変えているのだ。興味深い。この日初めて相対した御坂康祐という青年に、バートは一気に興味を奪われていた。
2人はその後、研究室で深夜まで話し込んだ。
目を通した互いの過去論文のこと。偶々目指した先が被り、共同研究に至った経緯。
この大学の現状。互いの経歴から、果ては先日のバカンスの過ごし方まで。
御坂は実に人の話を聞くのが上手く、柔らかい表情で転々とする話にも相槌を打った。そんな優しい年下に気分が良くなり、旅先で見たあれが面白かった、こんな事があったと話を広げている内に、いつの間にやら時計の針は峠を越えてしまったのだ。
「えっ…もうこんな時間か…!?すまない、俺ばかり話してしまって疲れただろ、気にせず休んでくれ」
時計を目に慌てて立ち上がるが、相手に特に気にする素振りはない。
貴重な時間を随分奪ってしまったにも関らず、相変わらず鷹揚とした態度で、こちらの為にハーブティーまで淹れてくれている。
「私は構いませんが…大学への挨拶は済まされたんですか?」
「うぁっ…あ、明日…明日、朝から教務課に出向こう…」
美しい造りのティーカップを受け取り、ついまた椅子へと座り込んでしまう。
何と恐ろしく居心地の良い空間だろう。そう言えば隣にはバスルームと寝室まで備え付けられ、優に2、3人は寝泊まり出来る設備の様だ。
「俺は…此処に泊っても大丈夫かな?」
「可笑しなことを言う、貴方の研究室ですよ。シャワーはお湯になるまで時間が掛かるので、暫く待って使って下さいね」
「あ、うん」
御坂は親みたいな言い付けをくれると、リビングテーブルの上を簡単に片づけて去って行った。彼が向かったのは廊下を隔てたバスルームで、カタンと扉が開いたのち、次第に水の流音や物音が聞こえ始める。
バスタブに湯を準備しているらしい。聞き慣れた生活音が見知らぬ土地の緊張を解し、ハーブティーの温かさが体内へ柔らかく満ちる。
ふと見渡した部屋は彼の性格を如実に表した様に整頓されていて、研究者らしからず生活力も十分と知れた。所々に贈り物であろう高そうなアンティークも飾られ、センスも素晴らしい。
「右側の寝室が空いてるのでどうぞ、荷物はこれだけ?」
顔を上げれば戻って来た相手が、雑に板間へ置いていた鞄を持ち上げている。
「待て待て!荷物くらい自分で運ぶ…そんなに気を遣わないでくれ!」
「ああ、すみません、癖で」
何の癖だ。
焦って立ち上がる自分を他所に、彼はキャリーバッグを抱えて扉を開ける。思わず追いついて隣から奪い取れば、実に不思議そうな目がじっと此方を見上げていた。
「ボーイのバイトでもしてるのか?そんな世話を焼かれたら俺が何も出来なくなるぞ…あと、言葉遣いももっと崩してくれ」
彼は間を開け、何を返すかと思えば一言「注文が多い」と苦言した。
まさか指摘を指摘で返されるとは。棒立ちになる大人を放り、御坂は寝室のカーテンを引いてからテーブルランプを点ける。
「…バートと、名前で呼んでくれ康祐。俺たちはこれから長い戦友なんだから」
バツが悪そうに、しかし明瞭に「康祐」と唇が形作る。華奢な体躯は発言主を振り返ると、矢張り大人が子供にするような、困惑して眉尻を下げた顔を湛えていた。
「貴方は余りに真っ当で、不安になる」
「…え?」
「いえ…その通りだ、バート。私は貴方と対等に立たなければならない。提案に甘んじて、今後は距離も時間も無駄な言葉は慎むようにするよ」
小難しい言葉の意図を考える前に、白い姿は寝室の出入り口をすり抜ける。
直にお湯が溜まるからどうぞと、結局こちらの為でしかない一言が加わり、バートはまた名状しがたい顔をつくる羽目になった。
「だから…そうやって世話を」
文句を挟みこそするが、実際は気遣いが心地よくて堪らない。
しかしこれに嵌っては駄目だ。まず荷物を片付けようとキャリーバッグを開くが、先ほどのやり取りが引っ掛かって再び手が止まった。
(癖で、…とはどういう意味だろう)
世話を焼く癖、ということは弟妹が居たのか。否、だとしても、10は年上の自分に対して、つい弟妹と同様に接してしまうだろうか。
或いは介護、誰かの従卒として雇われた経歴があるとか。
諸々考えを巡らせたものの、そんな疑問はごく近い内に解明されることとなった。
「――バート、共同研究者として話しておくべき事が」
中庭での顔合わせから数週間後。
やっとコミュニケーションにも慣れてきた折、御坂は妙に改まった口調で前置きを寄越していた。
「お?何だよ、神妙そうだな」
「実は、研究への資金提供…要はスポンサーを申し出てくれた方が居る。必要なら、機材の整備もすると」
「有り難い話じゃないか。誰だか知らないけど、大学の予算だけじゃ限界があるし」
「君は問題ない?」
「ああ、何も俺たちは兵器を開発している訳じゃないんだ。ライセンスに噛ませろとか、面倒なのは困るけどね」
「分かった、その点は大丈夫」
当時は深く気にしなかった。御坂の返答は妙に端的で、自ら切り出した割に、早々と会話を終わらせたい意図が透けて見えていた。
手元の見積もり作成に忙しかったのだろう。
バートは新しい生活のスタートに浮かれており、後日顔見せにやって来た件の”スポンサー”にも、甚く上機嫌で会いに行った。
「やあ、忙しいのに済まないね」
客間に入れば、ソファーにはスリーピースに身を包んだ紳士が掛けていた。
スーツの襟もとにはアメリカ国旗バッジが見え、国務省の関係者か、議員かと考えを巡らせる。
「こちらこそ御足労頂いてすみません、バート・ディーフェンベーカーと申します」
「メイソン・スウィフトだ。噂に違わぬ色男だなバート君、康祐から色々聞いているよ」
「は…」
康祐、と呼び捨てにされた相方は傍らに居た。
気付かぬ間に当然の様に客人の前へ膝を突き、高そうな細工のアフタヌーンティーを準備している。
「私は別な仕事でも康祐に出資していてね、何か面白い研究をすると聞いたから…どうだ、そちらにも援助しようかと申し出たんだ」
「別な仕事?それは…初耳で」
「閣下」
厳粛な声で、御坂が”サー”と彼を呼び止める。
無駄のない動きで腰を上げ、こちらからは表情が伺えぬまま相棒は会話を遮断させた。
「紅茶が冷めます」
「ああ、頂こう…バート君も掛けてくれ」
その不可思議な空気に何も言えぬまま、バートは黙って対岸へ座る。御坂は給仕のようにこちらにも茶器を寄越し、礼を言えど会釈だけで客人の隣へ下がってしまった。
「先ずは名刺を渡しておこう、この電話番号は余り使い勝手が良くないのだが」
差し出された紙片を丁重に受け取る。
名前と電話番号。その前に書かれた役職へ、バートは思わず居住まいを正す。
副大統領補佐官。想像以上にとんでもない位の御人であった。この名刺を渡してくるということは、国が直接支援を申し出ているという事だ。
「なに、ライセンスを国に寄越せなどとごねる気は無いよ。しかし君達の研究する”ナノボット”と言うのは余りに先進的で、実現すれば国際的な火種となり得るものだ」
「…つまり、国の管理下に置きたいと?」
「怖い顔をするな、管理したいと言ってる訳じゃない。君は技術を何と捉える?多くの者は武器と捉える、それは正しいのだ。力ではなく、武器。この違いが分かるかね」
バートは余計な相槌を挟まず聞いた。
御坂の表情を見ているに、そうした方が良いと察したのだ。それに、この客人の話は尤もだった。
「人から人へ渡る、売買できる…技能と異なり、図面化して誰でも扱える。悪意ある者の手に落ちれば、君が幾ら世界平和と唱えてもそうはならんのだ」
仰る通り。楽天的だが馬鹿でないバートは、御坂がこの話を国の役人へ伝えた訳を知る。
未曽有の領域に手を出そうとしている。我々は無防備なのだ、余りにも。
「技術は力とセットでなくてはならない。君が拉致監禁され、殺され、成果を奪われるなんて事も容易にある。そうなってはもう、個人の責任に収まらんのだよ。我々が動くにしても遅すぎる」
「…護って下さるのですか」
「勿論」
敢えて前向きな言葉を選んだ。バートの処世術を褒めるように、客人は満足そうに頷いてカップを傾ける。
「そう好意的に捉えてくれ、バート君」
再び御坂を伺い見れば、こんな大事な話し合いでぼうっと窓を見ていた。
らしからぬその姿が儚く、胸がざわつく。
資金提供の話はその場で署名が完了した。
客人は御坂と話があるらしく、バートは先に出入り口へ向かい、しかしふと先ほどの様子に後ろ髪を引かれて足を止めた。
2人は隣の部屋へ移り、聞き取れぬほどの声量で何か相談していた。
仕切り戸の隙間からこっそり覗けば、妙にその距離は近い。何だか怪しい空気だと注視した矢先、危うく声を上げそうになる。
スポンサーが身を屈め、青年に口付けていた。
始めは柔らかく、挨拶程度であったが、段々と背中を這う手の動きがいやらしくなり、同時に淫猥な水音と吐息が部屋へ満ち始める。
両手には汗が滲み出た。音を立てない様に踵を返し、バレないよう立ち去ることに成功したが、心臓の異様な速さは戻らず立ち竦んだ。
(アイツは抵抗していたか)
どうにか、どうにか隅の冷静な部分で解析を始めて、バートは相手の肩に喰い込んでいた白い手を思い出す。
(抵抗していた、なら)
直ぐに覚悟を決めて引き返し、今度は音を立てて仕切り戸を開いた。
スポンサーは弾かれた様に振り向いたが、器用なことに既に距離を離し、平静な顔をして首を傾げている。
「どうしたのかね?」
「あ…いや、申し訳ない…急を要する連絡が入って…康祐をお借りしたいのですが」
御坂は困惑し、盟友を見ていた。
唇が赤い。隠せぬ湿り気を帯びて、シャツの釦は一段目が外れていた。
咄嗟に腕を掴み、客人へ謝りながらも有無を言わせず連れ去る。ちらりと見えた大人の目は可笑しそうに歪んでおり、ああ、まったく。嫌な種類の狐だと唇を噛み、足早にその部屋から逃げ出した。
「バート」
背後から何度も呼ばれている事に気付いたのは、研究室に着いてからだった。
「バート、待って」
御坂の身体を引き込んで扉を閉めると、瞳孔が開いたまま肩で息をする。
下から己を覗き込む青い目は、慌てるでも咎めるでもなくじっと正視していた。
「康、祐…スポンサーの話は断ろう」
「どうしたの急に」
「お前に!…未成年に、身体の関係を強いる様な大人に…頭を垂れなくていい」
当人にやり場のない怒りをぶつけかけ、留まった大人が俯く。
しかし庇われた側は不思議そうに瞬き、まるで文化圏の異なる種族へ相対した様に説得を始めた。
「君の清廉な生き方は素晴らしいと思う」
また年不相応な文言で淡々と、美しい発音で理論整然と。
「でもそれじゃお腹は膨れない、私もこんな恵まれた環境になど居ない。そしてこう言うイデオロギーの話は、どれだけ対立しても平行線にしかならない」
正し過ぎて眩暈がする。自分の方がよほど幼稚で、しゃがみ込んで泣きたい気分にすらなっていた。
どうしてこちら側が慰められなければならないのだろう。この相棒を、薄い肩を助けようと手を伸ばそうが、気付けば構われ世話を焼かれるのは自分になっている。
「…つまり、どうすれば?」
「共同研究を続けたいのであれば、お互い深く立ち入るのは止めにしよう」
2人で仕事をしたいなら、目を瞑ってスポンサーを受け入れろ。スポンサーにケチを付けるのであれば、話は全て白紙に戻せ。
残極な様で尤もな主張に俯き、バートは雁字搦めで苦しむ。
御坂は汚い大人の恣意に塗れてなお、目の前で傷付く相手を気遣っていた。
ともだちにシェアしよう!