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第2話
僕が将斗と初めて出逢ったのは、大学の入学式の日だった。
式を終え、教室でオリエンテーションを待つ間、僕は周りに馴染めなかった。アイドルの話題や、可愛いい女の子がいたとかいないとか、どうでもいいような話題が頭の上を飛び交っては消えていった。これじゃ高校生の時と何も変わらない。僕はどこか居心地が悪く、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
その時、向かいの建物の窓からじっとこちらの教室を気にしている人物がいた。僕はなぜかその人が気になって仕方なかった。
僕たちは互いの視線に気付いた。それでも二人はじっと動かなかった。
僕はまるでなにかに引き寄せられるように教室を出た。右も左もわからない建物の中で、その人を探し出すなんて無謀なことにも思えた。でも僕はそうしないではいられなかった。
いくつ廊下の角を曲がったのか、わからなくなりかけていた時、僕はうっかり誰かとぶつかりそうになった。
「おおっと、大丈夫か?」
僕はバランスを崩して倒れそうになった。でも床に手をつこうと伸ばした手をその人が掴んでくれて、僕は廊下で転んでしまうという失態をおかさずに済んだ。
「あ、ありがとうございます」
「新入生か。こっちの校舎はまだ君たちには縁のない場所だろ。誰かを探しているのか?」
まったく図星だった。僕はうまく答えられず、返答に困った。まさか初めて目が合っただけの、名前も知らない上級生を探しているなんて知られたら、どんな恥をかいてしまうだろう。
「兄弟がいるとか?」
「あ、はいそうなんです。兄を探してました」
「へえ、名前は?」
しまった、僕はうっかり自分で自分を追い込んでしまった。どうしよう?
「君の名前は?」
「えっ?」
「俺は野口純平。君の名前は?」
「あ、わたる、能見航です」
「わたる、か。可愛いいな、わたる」
僕は想像もしていなかった不意打ちに、すっかりしどろもどろになってしまった。
「あれ? 顔が真っ赤だな。熱でもあるのか?」
彼の大きな手のひらが僕の額に当てられた。彼は急にしかめ面になり、僕の頭に左手を廻すと、僕の額を自分の額にぐっと引き寄せた。
「こうしないとわからんな」
息ができない。
ちょっと強引だけど、真っ黒で大きな瞳、薄くて精悍な唇はキュッと閉じられ、真剣な顔つきをしていた。きっと本気で僕のことを心配してくれているんだ。
だけど僕の心臓は僕の命令をまったく受け付けないばかりか、ますます乱暴に暴れ出していた。僕はますます返答に窮してしまった。
「熱はないみたいだな。どうした、そんなに見つめられたらキスしたくなちゃうな」
もうだめだ。僕の頭は混乱して思わず目を閉じてしまった。
「いいのかな、それ。イエスってこと?」
こんな強引なファーストキスってありなの?
「どうした純平。こんなところでラブシーンか?」
その言葉を聞いて、僕はやっと出口を見つけた。
「あ、すみません。転びそうになったところを……」そこまで言いかけて僕は言葉に詰まってしまった。
そこに立っていたのは僕が探していたその人だった。
「おお、将斗か。あやうく見られちまうところだった」
純平さんは僕を真っ直ぐに立たせて、僕の瞳を覗き込むようにして笑った。
「冗談さ、わたる君。こんどは廊下の角を全速力で走りこんできたりしないようにな」
「あ、はい!」
僕は場違いな大声を上げしまった。
「それだけ元気があれば大丈夫だな」
「お前、名前は?」
それは将斗さんの声だった。まるで耳から全身に電気が走ったような衝撃を覚えた。なんだろう、この感じは?
「おや、わたる君が探していたのは将斗だったのか。おい将斗、お前も罪つくりだな。入学式を終えたばかりの新入生がまた一人、お前の魔法にかかっちまったみたいだぞ」
「あの、あ、失礼しました!」
僕は恥ずかしくて、その場を去ろうとした。すると大きな手が僕の肩を掴んだ。思わず振り返ると、そこには将斗さんの顔があった。
「まだ名前を聞いてないぞ」
僕の心臓は今にも口から飛び出しそうだった。
「あ、あの、能見航です」
「のうみわたる、か」
僕は将斗さんの全てのものを突き通すような眼差しから逃げることができなかった。
「俺は秋川将斗。お前の二個上だ」
不満気な顔つきで純平さんが言った。
「お前を探して校舎中を走り回っていた迷い子ちゃんを助けたのは俺だぜ、将斗。少しは俺に感謝してもらいたいもんだな」
「あ、あの、本当に助けてもらって、ありがとうございました!」
僕はあわててまたも大声を出してしまった。すると純平さんは、自分のアゴを掴むようにして大声で笑った。
「なあ将斗、ここは公平にいかないか? 航と先に出会って、しかも助けたのは俺だ。最初のデートの権利が俺にあったとしてもいいよな?」
デ、デートって、いきなり純平さんは何を言いだすんだ?
「それは俺が決められる事じゃない。本人に直接聞いたらどうだ」
将斗さんまでそんな、僕たちまだ会って間もないというのになんて事を言いだすんだ。
「それもそうだな。さ、可愛いい仔犬ちゃん。君はどっちの誘いを受ける?」
「いい加減にして下さい、二人とも。僕はそんな、どちらかとデートするなんて言ってないし、勝手に決めたりしないで下さい!」
僕は肩で大きく息をしていた。あまりに急すぎる展開に、それも勝手過ぎる展開に怒りに近い感情を覚えてしまっていたからだ。
「まあ勝手にするんだな」
そう言い残し、将斗さんは立ち去って行った。
「あらら、本命は行っちまったぞ。どうする、仔犬ちゃん?」
「僕は犬なんかじゃありません!」
もうどこかへ行ってしまいたかった。恥ずかしさと自分の言葉に対する後悔とで、消えてしまいたかった。
僕はまた走り出した。まだ一人ではどこへ行くこともできない廊下を。ただその場にいることができなかった。
「おい、わたる君!」
遠くに純平さんの声を残したまま、僕は走った。
それからどこをどう走って自分の教室へ戻ったのか覚えていなかった。ただどうしようもなく溢れてくる涙を必死に拭っていた。
これが僕と将斗との最初の出逢いだった。
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