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第4話

 僕は午後になって、美術同好会の部室をようやく見つけることができた。 (ああ、僕の方向音痴は大学に入っても治らないのか)  いくらか絶望的な気分だった。でもそれはそれ。僕は今ここにこうして立っているんだ。  高校の時は美術部では油彩画が活動の中心だった。でも僕はあの油絵の具の匂いがどうしてもダメだった。しばらくすると気分が悪くなってしまうんだ。だからずっと興味があった美術部には入らなかった。  でもここでは水彩画だけでも構わないと聞いて、僕は有頂天になっていた。  日浦先輩に強制的に入会させられることになったペンクラブ同好会のことはまだ何も知らされてはいないから、ちょっぴり不安だけど。    扉の前でアレコレと考え事をしていたら、いきなり部室のドアが向こう側に開いて、部屋から出てきた人の胸元にぶつかってしまった。 「ご、ごめんなさい!」 「おいおい、また仔犬ちゃんかよ」  あろうことか今日、二度目のニアミスの相手はまたしても純平さんだった。 「どうやら俺は仔犬ちゃんに浅からぬ因縁があるみたいだな」  そう言って純平さんは大笑いした。 「本当にごめんなさい。でも何で純平さんがここに?」 「ああ、俺か? 俺、美術同好会の副会長だから」  この人はいったい何なんだ? だってさっき教室で僕は美術同好会へ行くって話したのに。そのときは何も話してくれなかったじゃないか。  待てよ。そうか、僕の行き先がここだと知って、教室を早々に引き上げていったということか。なんだか騙されているような、からかわれているような、複雑な心境になってしまうじゃないか。 「おーい、将斗。さっき話した新入部員がやっとご到着だぞ」  え? まさとって、あの将斗さんのことなの? 「ほら、早く中に入んなよ。会長さんがお待ちかねだぞ」  え? 会長って美術同好会の? 「仔犬ちゃん、お口がぽっかり開いてるよ」  僕はあわてて手で口をおさえた。顔から火が出そうなほど熱い。 「よく来たね、どうぞ」  紛れもない、将斗さんの声だ。部屋の中にはいると、こちらに背中を向けたまま水彩画のキャンバスに向かっている将斗さんの背中が見えた。広い背中……。内腿の筋肉が引き攣れたようになって、前に歩き出すことができない。急に胸の鼓動が速くなる。 「どうした、仔犬ちゃん? 緊張して固まったか?」  どうして純平さんはいつもこういう言い方なのだろう。あまりに核心を突いているから、返って動揺してしまう。 「ほら、おいで」  そう言うとまたあの腕が僕の肩に巻きついてくる。 「あ、いえ、一人で大丈夫です!歩けますから!」  つい声が大きくなってしまった。そのせいで驚いたような顔つきで将斗さんが振り向いた。ますます恥ずかしい。  純平さんはまた包み込むように顎に手を当てて笑っている。 「能見航……君だったよね」  将斗さんは覚えていてくれたんだ! そう思うと胸の辺りがキュンと苦しくなって、思わず手を首の付け根辺りに当てた。 「ん? そこが痛いのか?」  声をかけて来たのは純平さんだった。 「あ、いえ、大丈夫です」 「俺さ、見た目よりガッチリしているからな。ぶつかった時に痛めたか? 見せてみな?」  純平さんの手のひらが僕の胸元に触れた。 「ひやぁっっ!」  ついおかしな声を上げてしまった。本当に自分でもびっくりした。だけどびっくりしたのは僕だけじゃなかった。 「純平、いい加減にしろよ。怖がっているじゃないか」 「え? マジで?」 「いや、あの、平気です。大きな声を出してすみません」  どうやら部室の中には他には誰もいないようだった。本当によかった。すると将斗さんがキャンバスの前から立ち上がり、こちらへ向かってきた。 「すまない、怖がらせてしまったみたいで。でも純平には悪気はないんだ。ただ直感に任せてズケズケとものを言うことと、相手の人見知りを理解できないところが難点なんだけどね」  僕は視線を床に落とし、自分の出した間抜けな大声に恥じ入ることしかできなかった。 「じゃあ改めて自己紹介をしておくか。僕がこの美術同好会の会長、秋川将斗。そして彼が副会長の……」 「野口純平だ、仔犬ちゃん」  僕は二人の顔に交互に視線を向けた。何て呼べばいいんだろう? 後ろに先輩をつければいいんだろうけど。 「呼び方は好きにしていいぜ。でも苗字で呼ぶのだけは勘弁してくれ。先輩でも、さん付けでも構わないよ、仔犬ちゃん」  僕は純平さんの顔に捕まってしまったように視線を奪われた。なんで僕が考えていたことがわかったんだろう? まるで僕が考えていることが全部わかってしまうみたいだ。  それって怖い、怖すぎる! 「何だよ、何で怯えているんだよ?」 「おい純平、いい加減にしておけよ。すまない、航くん。こいつ、これでも根は優しくていい奴だから。気にしなくていいよ」 「あれ? 仔犬ちゃん、今度は怒っちゃったのか?」 「いいえ!」  僕はちょっとだけ純平さんを睨みつけてしまった。 「さてと。それじゃ俺は仔犬ちゃんの指導教育係ってことで。それでいいよな、将斗?」 「そうだな。頼むとするか。航君、これからの活動に関しては純平が細かく世話をするから。それで純平を許してやってくれないか?」  僕はちょっぴり切なかった。僕の指導をしてくれるのが将斗さんじゃなくて純平さんだってことに。でも新入生の僕なんかが口出しできる事じゃない。それは納得するしかなかった。 「はい、えっと、純平先輩。よろしくお願いします!」  僕の言葉を聞いていた純平さんが、何故かその場で凍りついたように固まってしまった。 「おい純平、頼んだぞ?」 「え? 、ああ。わかってる」  純平さんのまるではにかんだような顔付きが、何故かおかしかった。 「おはようございます!」  大きな声で同好会の部員らしき人たちが続々と集まってきた。美術同好会ということもあってなのか、集まってきた人たちのファッションや髪型はそれぞれに個性的だった。 「さて、揃ったようだな。それじゃ新入生を紹介するぞ」  将斗さんがそう言うと、周りからパラパラと拍手鳴りが響いた。 「今年の新入生で、能見航君だ。みんなよろしく頼んだぞ」  それから一人一人の自己紹介が始まったが、ほとんど僕には記憶に残らなかった。みんな、ごめんなさい。これからゆっくり覚えます。  それから将斗さんの提案で、僕は水彩画に必要なものを買い揃えるために画材屋さんに行くことになった。でも初めてだから、何を買えばいいのかわからない。そこで指導教育係の純平さんと一緒に出かけることになった。  本当は将斗さんが来てくれたら嬉しかったけれど仕方がない。 「仔犬ちゃん、本当はがっかりしているんじゃないか?」 「え? 何がですか?」 「俺が付き添いだからさ」 「そ、そんなことありません。だって純平……先輩は僕の指導係ですから」 「無理しちゃって。まあいいか」  この人の鋭さは何だろう? 本当に全部見透かされているみたいだ。 「仔犬ちゃんさ、将斗のことが好きか?」  僕は思わず立ち止まってしまった。一体この人は何を言いだすんだ? 「やっぱりそうか。じゃ両思いだな、お前さんたちは」  僕は息が詰まりそうになって、咳き込んでしまった。 「な、何を言いだすんですか? それ、誰と誰のことです?」  僕の心臓はまさに早鐘の如く騒がしく暴れた。  今まで横に並んで歩きながら話していた純平さんは、僕の前に正面から向かい合った。 「仔犬ちゃんが部室に来る前に、将斗から聞かされたんだ。お前さんたち、校舎の窓越しに初めて会ったんだってな?」  僕は思わず胸が熱くなった。  やっぱり将斗さんもあの時、僕の事をちゃんと見てくれていたんだ。どこかで気持ちが通じていたんだ。やっぱりどこかに神様っているんだ。そう思うと、胸が何かでいっぱいになって、瞼の下側から熱いものが溢れてきた。 「おいおい、もう泣いちまうのか? まだ話には続きがあるんだぞ」 「あ、その、ごめんなさい。何だか胸がいっぱいになっちゃって」  純平さんはふっと溜息を吐いたみたいだった。それから陽が傾きかけた空に向かって顔を上げた。 「あるんだよね、そんな運命みたいなもんってさ」 「運命?」  純平さんは僕の顔をじっと見据えた。何だか少し怖い顔付きだ。 「仔犬ちゃんさ、将斗はお前のことが好きだ」 「……」  僕は黙って頷くことしか出来なかった。きっと僕の心臓は誰かに乗っ取られてしまったに違いない。全然僕の言うことなんか聞いてくれそうもないほど、勝手に暴れ始めてしまうんだから。 「まあ、そこから先はお節介って奴になちまうから、自分たちで話すんだな」  でも何でそれを純平さんが口にしたんだろう? 「きっと仔犬ちゃんは何で将斗じゃなくて俺がそれを言うのか、納得できないだろうな」  まただ。やっぱり純平さんには僕の心の中を全部見られている。 「俺はずるい男かも知れない。相談を受けた将斗に内緒で、こうして仔犬ちゃんに将斗の気持ちを話してしまっているんだからな」  え? それじゃ、純平さんは将斗のさんに何かを頼まれたわけじゃないんだ? 「俺も同じ事を将斗に話す気でいた。俺は仔犬ちゃんのことが好きかも知れないってな」 「え?」  僕はいきなり後頭部を叩かれたような気がした。純平さんが僕の事を好きだって? 「でも、将斗に先に言われちまった。それに将斗が仔犬ちゃんを見初めたのは俺よりも先だ」 「純平先輩……?」 「なあ、このことは将斗には言わないでくれよ? かっこわりいからさ。俺も口にするのは今だけだ。二度と口にはしない。だから将斗には話さないでいてくれるか?」  僕は心の内側で、何だか熱いものが込み上げてくるようで、何故だか目頭が熱くなった。 「まあ、あいつは俺に比べればかなり奥手だろうからな。なかなか口にはしないかも知れないけど。でも仔犬ちゃん、あいつを、将斗を待っていてやれよ。きっと、いや必ず仔犬ちゃんに全部打ち明けると思うからさ」  僕はもう涙をこらえる気にはなれなかった。その場にしゃがみ込んで、声を殺して泣いた。  嬉しかった。もちろん将斗さんの気持ちが嬉しかった。でも今はそれ以上に純平さんの思いがうれしかった。  僕はきっとぐちゃぐちゃの泣き顔をしている。でもそれでも純平さんに向かって顔を上げた。 「純平先輩、ご、ごめんな……」  だが僕の言葉は純平さんに遮られてしまった。 「やめろよ、そんな言い方。そんな言葉が聞きたいんじゃない。仔犬……いや、航が将斗を好きかどうか。それだけが聞きたかったんだ」 「僕は……まだ将斗さんのこと何も知りません。でも将斗さんを初めて見たときにじっとしていられないくらい衝撃を受けたんです」  僕の言葉じりはしゃくりあげてくる息で小さくしぼんでしまった。 「そうか。それがあの時の廊下で会った時の仔犬ちゃんの形相に表れていたってことか。わかった。ようくわかったよ。これで俺も自分の気持ちにけじめがつけられそうだ」 「純平……先輩?」  純平さんは僕の肩を支ええて、立ち上がらせてくれた。その手はとても優しかった。 「さ、早いとこ買い物を済ませようぜ。じゃないと将斗が心配しちまうからな。俺はバイトがあるから、画材屋で用を済ませたら自分で部室まで運んでおけよ。さ、行くぞ仔犬ちゃん」  僕は純平さんの後ろを遅れないように必死で歩いた。  僕なんかまだ純平さんほどの大人にはなってない。まだまだ子供だ。でも、でも目の前を歩く純平さんの背中は、ほんの少しだけ泣いているように僕には思えた。

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