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第5話

 画材屋さんで購入した品物は、思っていたより重かった。それもそうだ。だって僕は部室に置いておく道具の他に、自分の部屋にも画材が欲しくなってしまったからだ。  僕は広い通りに出て、タクシーを拾った。出費は嵩んでしまうけれど、こればかりは仕方がない。  僕は一度自分の部屋まで戻り、荷物の半分ほどを部屋に押し込むと、残り半分の画材を両手に抱えてキャンバスに向かった。  美術同好会の部室に戻る頃には、午後八時を少し回ってしまっていた。ところが部室にはまだ灯りがついていた。  まさか将斗さんが? いや、もし仮にそうだとしても僕を待っているのではなく、作品展に出す絵の仕上げをしているのだろう。  来月の終わりに、銀座の画廊が主催する小さな新人画家のコンテストがあるらしい。将斗さんも、同好会の他の人たちも毎日真剣な表情で作品に向かっているのだ。 「ずいぶん遅かったな?」  僕が部室のドアの前に立った瞬間、ドアがスッと開いた。そこには将斗さんが立っていた。  僕は不自然なくらいにまばたきを繰り返して、まるで帰りが遅くなって、玄関口に立つ親に見咎められたような気分だった。肩を窄めて、言い訳に口ごもる子供みたいに。  実際、将斗さんは眉間にしわを寄せ、ぐっと奥歯を噛みしめているような顔付きをしていた。  でも次の瞬間に、将斗さんの顔はパッと笑顔になった。 「重かっただろ? 手を貸すよ」  まるで灰色にくすんだ雲の間から眩しい陽光が差して、心に張り付いた澱(おり)が剥がれ落ちていくような気分だ。 「何だ? 驚かしてしまったか?」 「あ、いえ」  僕は返答に窮してしまった。 「純平からメールが来たんだ。あいつのバイト先、画材屋のわりと近くだから、配達の途中で気になって画材屋のそばまで行ったらしい。そしたら航がタクシーに両手に余るほどの画材を詰め込んでいるのを見かけたそうだ。それで安心しろって知らせて来たんだ。だけどあれから1時間半以上経つから、心配していたんだ」  そうだったんだ。 「あ、すみません。自宅用にも画材を買ってしまって、先に帰って半分置いてから戻って来ました」 「そうか。さ、運んでやるよ」  差し出された手は水彩絵の具で色とりどりに染められて、まるで夢の世界から伸びてきた手のようだ。将斗さんの手はゴツゴツしてなくて、むしろその体つきに比べると少し華奢で、長い指をしていた。 「どうした? 入らないのか?」 「あ、いえ、ありがとうございます!」  僕の鼓動が将斗さんに聞こえはしないかと不安になった。そんなことある訳ないのに。 「この棚を使っていいぞ」  ここを出る前までは雑然とした壁に作り付けられた棚は、心なしかすっきりと片付けられたように思えた。きっと将斗さんが僕のために整理してくれたんだ。 「ありがとうございます」 「え? いや、ここは丁度空いていたんだ」  たとえそれが見え透いた取り繕いであったとしても、僕は嬉しかった。  将斗さんが手際よく棚に僕の水彩画の道具を並べてくれて、ひと息つこうということになった。  もう四月だというのに、この時間になると外気はまるで真冬に巻き戻されたように冷たい。将斗さんが淹れてくれたコーヒーはとても美味しくて、心まで温めてくれるようだった。 「カップ、僕が片付けます」 「ああ、いいよ俺が……」  そう言って僕が立ち上がった時に、同時に将斗さんも立ち上がろうとした。 向かい合って床に座っていた僕たちの額がぶつかりそうになり、反射的に将斗さんが僕の頭を抱えたまま、僕たちは床に転がった。鈍い音が響いた。将斗さんは僕の下になってくれたために、きっと頭を打ち付けたんだ。 「将斗先輩! 将斗先輩!」  僕は目を閉じたままの将斗さんを見るなり、泣き声のような声を上げてしまった。 「将斗さん!」  僕はつい名前を呼んでいた。涙が溢れそうになって、将斗さんの頬に両手を当てた。  いきなり将斗さんの瞼が開いた。良かった、無事だったんだ! 「その呼び方は二人だけの時にしてくれ。そうじゃなきゃ俺は人目も気にせずキスしてしまいそうだ」  突然の告白めいた言葉に呆気にとられた僕の顔を見つめたまま、将斗さんは首を持ち上げ、泣きべそ顔の僕の瞼を唇で塞いだ。 「しばらくの間、目を閉じていてくれ」  まるで魔法の言葉のような将斗さんの声に僕は従った。そして何か言い訳をしようと動きかけた僕の唇は、将斗さんの唇で塞がれた。  ドクンと胸を突き上げる鼓動も強い胸に抱きしめられて、二つの鼓動がぶつかり合った。滅茶苦茶に暴れていた二つの鼓動はやがて同じ波になり、同じ時を刻み始めた。  何ひとつ言葉は浮かんで来なかった。いや、言葉なんかもうどうでもいいとさえ思えた。  別々の人生を歩んで来た二つの鼓動は、まるでこの時を待っていたかのように同調し、狂喜乱舞しながら同じ一つのリズムを響かせている。  誰に教えられた訳でもないのに、僕はそう感じていた。  僕の目尻から流れる熱い涙を、一瞬だけ僕から離れた将斗さんの唇が受け止めてくれた。そしてまたその唇は僕を求めて彷徨い、熱い吐息とともに僕の口元にたどり着く。  僕の両手も将斗さんを探し求めるように彷徨い、そのしなやかな首筋に触れた。  将斗さんの体が横向きのまま片方の肩を上げると、僕らの身体はゆっくりと半回転して、将斗さんが僕の上に覆い被さった。  互いの鼓動が同じように互いの全身を支配しているせいなのか、呼吸さえ自然に呼応し合い、息苦しさも重さも感じなかった。  僕の心は、この時間が永遠に続いて欲しいと願っている。そうだ、僕は将斗さんが好きだ。そうなんだ。そして今、将斗さんはそんな僕の心を分かってくれている。ただそれが嬉しくて、僕はまた瞼を熱く濡らした。    どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。今は時間の感覚さえなかった。  そっと将斗さんの唇が僕から離れた。そしてまたあの魅惑的な声が耳から伝わり、僕の体の中に沁み渡る。 「航、好きだ」  涙でぼんやりと将斗さんの顔が霞んで見えた。そしてまた将斗さんは僕の嗚咽を唇で封じた。 「さあ、もう遅い。今夜は送っていくよ」  僕は将斗さんと離れるのが嫌で、また泣きべそをかいてしまいそうになった。 「これからはいつでも一緒だ。だからもうそんな顔をしないで」  僕はそれでもグズる自分の心を抑え込もうと努力した。でもその葛藤はまた涙になって表に出て来ようとする。まるで駄々っ子のように。  まだ一緒にいたい。まだ帰りたくない、と。 「明日の土曜日は二人で一緒に過ごそう。日曜日は何も予定を入れずに二人だけの時間にしよう。それまで我慢できるか?」  僕は我慢という言葉を聞いて、急に現実に引き戻された。僕は何を考えているんだ? このままずっとここにいられる訳がないじゃないか。ここは学校だ。おまけに時間だって……?  僕は将斗さんの肩越しに壁の時計を見て驚いた。もう十二時を回っているじゃないか! 「ご、ごめんなさい。こんな時間だなんて思っていなくて……」 「いいさ。俺だって同じだ」  先に身体を起こした将斗さんが僕の手を引いて抱き起こしてくれた。温かい手の温もりを感じて、ふっと意識が巻き戻される。 そんな僕の気持ちを察してくれたのか、将斗さんはまた熱い唇を僕に重ねてくれた。 二つの心が寄り添っている実感を得て、僕はまた嬉しさに涙が零れた。 「可愛いい泣き虫だ」  そう言うと、将斗さんは僕の両手を優しく掴んで立ち上がらせてくれた。  きっとこれが紳士的な振る舞いというものだのだろう。将斗さんは自分の車で僕を部屋のそばまで送ってくれた。その時間の中に二人に言葉はなかった。でもそれが僕に心地よさというものを教えてくれた。好きな人と一緒にいる時間というものは、ただそれだけで心を満たしてくれるものなのだと。 「ここでいいのか?」  僕はすぐには返事ができなかった。きっとこれが未練というものなのだろう。まだ一緒にいたい。離れたくない。このまま一人にはなりたくない。 「航の声が聞こえてきそうだ。帰りたくないって」  僕はその言葉に、また温かいもので身体中が満たされていくのを感じた。 「ごめんなさい、わがままで……」 「二人ともきっと同じ気持ちだ。だからそれは一方のわがままなんかじゃない。でもちゃんと正しいルールも二人で作っていかなきゃならない。周りの目を気にするとかじゃなくて、自分たちでコントロール出来なければ、俺たちの恋は恋じゃなくなってしまう。だから俺は一人の人間として、航との関係を丁寧に描いていきたいんだ」  将斗さんの言葉に、あれは一時の欲望などではなく本物の将斗さんの気持ちなのだと思えた。 「はい」  将斗さんの車を降りようとした時に僕は腕を掴まれ、運転席に引き寄せられた。そしてまたあの熱い唇を全身で感じた。 「おやすみ、航」 「おやすみなさい、将斗さん」  僕は将斗さんの車が見えなくなるまで見送った。  春まだ浅い夜気に頰を冷まされても、僕の心の中に伝わって来た将斗さんの温もりは少しも冷めることはなかった。

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