6 / 8

第6話

「仔犬ちゃん、そう言えば仔犬ちゃんは寮生か? それとも豪華なお屋敷から、執事の送り迎え付きで通学か?」  半分以上は純平さんに愚弄されているとしか思えない。  純平さんの潔さと実直さはよく理解できているつもり。でもあの軽口は時々ガマンならない。 「えっ? 執事の送り迎えはないけど、郊外のお屋敷のことなんで知っているんですか?」  正面からアッパーをカマした。しかもクリーンヒットだ。  純平さんは言葉を失い、あんぐりと口を開けたまま、額に汗まで浮かべている。 「ま、まじかっ!」  でも、もしかすると、返って面倒臭いことになるのだろうか? 今日の美術同好会の部室には、副会長の純平さんと僕、他に女子の先輩二人の四人だけだった。つい気持ちを緩くして口から出まかせを……いや、全くの嘘という訳じゃないけれど。  だってキャンパスから歩いて十分くらいだなんて本当の事を言ったら、僕の住んでいる場所なんて、純平さんならすぐにでも嗅ぎつけてしまいそうだ。  さっきは郊外のお屋敷と言ったけれど、そこには両親が住んでいる。鎌倉にある海沿いの斜面を背にした洋館風の家で、敷地はそこそこ広いほうだと思う。中学の頃までは地元の私立学校に通っていたんだ。  僕が他の同級生と少しだけ違っていると気付いたのはその頃だった。僕の関心はいつも男子にばかり向いていたからだ。  よくある話なのかも知れないけれど、僕は見た目が女の子みたいだとからかわれることが多かった。通学の途中で、地元の観光地に訪れる大人たちに誘いを受けることもしばしばあった。  でも幸いなことに、僕の両親は少しだけ地元では顔が広かった。だから小町通りで知らない誰かに絡まれたりしても、知った顔のお店のオーナーさんが飛び出してきて助けてくれたり、大学生くらいの運動部系のお兄さん達が僕の家までボディーガードとして送ってくれることもしばしばあった。  それって普通の誰もが経験することなのだろうか? いや、きっと僕は過保護に育てられたに違いない。  高校は都内にある私立に通うことになり、僕は通学が大変だからと両親に我がままを言って、一人暮らしを始めた。  もちろん、本心は過保護の戦犯である両親から自立するために。  幸いなことに、実家にいる頃にはキッチンでの家政婦さんのお手伝いは許されていた。優しい人ばかりで、料理だけではなく、両親には内緒でお洗濯のコツや、洋服のたたみ方のコツも教えてくれた。だから一人暮らしを始めることに、少しも抵抗感はなかった。  少しだけ困惑したのは、いつもボディーガードをしてくれていた大学生のお兄さん達からのお手紙だった。驚いたことに彼らの生写真や携帯の番号、メールアドレスなんかも書いてあった。 「多分ファンレターですよ、ふふふ」  月に二、三度僕の部屋に来てくれる家政婦のミタライさんが届けてくれた。もちろん彼女の役割りはそんなファンレターの配達でもなければ、部屋の掃除なんかじゃない。僕の様子を確認して両親に報告することなのだ。それをミタライさん自身が僕に教えてくれた。  彼女は僕の味方でいてくれる。それにミタライさんは僕の家事の師匠なのだから。  先週はピザを生地から作るレシピの手ほどきをしてくれた。ピザを作るうえで重要なのは、材料の質とか、生地の発酵時間なんかではなく、生地をよく捏ねることだと、ミタライさんは言う。厚いピザ生地も、クリスピーな生地も「捏ねくり三年!」がミタライさんの口癖なんだ。  余った時間を無駄にはしない師匠は、残りの小麦粉でパニーニやラザニア、フライパンで作るガレットや簡単に焼けるパン生地の作り方を教えてくれた。 先週は師匠のすすめで、トーストが一度に四枚も焼けるコンベクションオーブンを買ってきたんだ。これ、スグレモノなんだよね。  まだあまり実感はないけれど、両親からほんの少しだけ自立できていると思うことが出来たのは、やっぱりミタライさんのおかげかな。  それにしても、もし僕が住んでいるマンションが見つかってしまえば、純平さんのことだから、面倒臭いことになりそうだ。  僕は内心、穏やかではいられなかった。  何故なら純平さんの話は少しだけ信用できないところもあるからだ。だって純平さん、将斗さんはオクテだと言ったんだよ? 昨夜の将斗さんのどこがオクテだと言うの?  安心しきって油断していた僕は、少し強引なくらいの将斗さんに、身体ばかりか心まで蕩けさせられてしまったじゃないか。  僕の全身には将斗さんと過ごした昨夜の甘い余韻がまだ横たわっている。  もし今、将斗さんの笑顔を見てしまったら、涙を零さずに冷静でいられる自信がない。首筋にシャツの襟が触れるたび、唇にカップが触れるたび、身体の芯が僅かに震えて、将斗さんの強く逞しい鼓動を思い出す。  そしてあの長い長い官能的なキスを……。 「仔犬ちゃん。何かあったのか? さっきからポーッとしたまま筆が進まないみたいだけど?」  そら来た。直感するどい純平さんのツッコミが。 「あ、ちょっと寝不足で」 「何だよ、昨日の話で感動しちゃった? それで眠れなかったのか?」 「違いますよ。僕みたいなど素人がコンテストに絵を出すなんて考えたら、なかなか寝付けなくて」 「そっか。でもさ、考えるより感じることが大事なんじゃないか? キャンバスに向かった時に何を感じるか。その感性に素直になればいいんだよ」  ちょっと間抜けそうに見えて、やっぱり純平さんは純粋なんだな。ちょっと見直しちゃう。僕は適当な口実をつけてしまった自分を嫌悪した。 「皆んな、おはよう」  耳が真っ先に愛おしい人を感じ取る。慌てた素振りを見せないよう、ゆっくりと首だけを声のする方へ向ける。将斗さんの顔には満面の笑みが溢れている。口元が反射的にキュッと緊張して、慌てて懸命に上唇で下唇を固く押さえつける。  いきなり将斗さんと僕の間に、スッと純平さんの顔が割り込んできた。分かっていたけれど、純平さんもかなりのイケメンだと思う。  すると純平さんは急に小声で話し始めた。 「何だよその表情は? 乙女の恥じらいみたいだぞ? まさか航、将斗と何かあったのか?」  僕は純平さんの顔を見つめたまま、つい目を大きく見開いてしまった。 「マジかよー、あーっ、ショックだ!」  いきなりボリュームマックスの純平さんの声に驚いたように、周りの皆んなの視線が集まる。 「あ、いや。こっちの話で。と、俺飲み物買ってくる」  そう言うと、純平さんは将斗さんの前をすり抜けるように部室を後にした。 僕は純平さんの気持ちを思うと居ても立っても居られず、純平さんの後を追った。それは純平さんを好きとか嫌いとかいうことではなく、僕のために心を砕いてくれた純平さんへの純粋な心配からだった。 「純平先輩!」  ようやく純平さんの背中を見つけ、声を掛けた。いつもみたいに振り返ってくれると思っていた。でも違った。純平さんは振り返ってはくれなかった。 「純平先輩?」 「来るな、仔犬ちゃん」 「えっ?」  僕は思わず走り出し、純平さんの前に回り込んだ。そして僕は自分の目を疑いたくなった。あの強心臓だとばかり思っていた純平さんの両頬を、涙が零れていたから。 「純平先輩……!」 「こんなツラ、見るなよ。仔犬ちゃんには関係ないツラなんだから」  なんて切ない表情なの? 関係なくないよ、だってその涙は僕のせいでしょ? 「いつかはそうなると分かってた。いや、二人を祝福してやりたいと思っていた。でも、いざその瞬間になってみたら……。まだまだ修行が足りんな、俺も」  純平さんは濡れた目元を拭おうともせず、無理やり笑顔を作ろうとしていた。僕はどう言葉を掛けるべきなのかわからなかった。ただオロオロと純平さんを見上げるばかりで、何の手助けもできやしない。 「純平!」  純平さんの背中越しに将斗さんの声が聞こえた。将斗さんも純平さんを追って来たんだ。 「純平、俺……」 「分かってる。何も言うな、将斗。ただし航を悲しませたりしたら、俺がただでは済まさないぞ。二度と立ち上がれないくらい殴り飛ばすからな。覚悟しておけよ」 「ああ、分かってる。俺は絶対に航を悲しませたりしない。どんなことがあっても」  純平さんは振り返ると将斗さんの襟元を掴んで、廊下の壁に将斗さんの背中を押し付けた。 「誓えるか?」 「誓える!」  僕は友情という言葉を知ってはいたけれど、僕のまだ短い人生の中で、それを実感したことはなかった。 「仔犬ちゃん、聞いたよな?」 「うん」 「俺が二人の証人だからな。忘れるなよ」  僕は二人が羨ましいと思った。そして僕の胸に熱いものが込み上げてきて、僕の頬を濡らした。

ともだちにシェアしよう!